、宗教がもういっそう進んで、第三の段階に入ると世界的宗教となって、倫理道徳の要素が十中七、八ぐらいに進んでくる。宗教の進化発展は主として倫理道徳の要素の増進すると然らざることにあるので、今日文明教として最も勢力を有している仏教だのクリスト教だのいう宗教はこの第三段階の宗教で、人によってはこれを倫理教ともいっている。しかしながら、仏教だのクリスト教だのにしても、まだ幾多の迷信を伴ってきているので、哲学上から見れば、今日および今後の宗教としてあきたらぬところが多い。そこで歴史的に考察するときには宗教に三段階があるが、なお将来の宗教如何を考察するときには純然たる普遍的世界的の理想教または倫理教が興ってこなければならぬ。人によっては仏教だのクリスト教だのを倫理教というけれども、将来の宗教はいっさい迷信を除き去った純然たる倫理教でなくてはならぬ。いいかえれば、純然たる普遍的世界的の理想教を要求する次第である。カントは宗教哲学においてはやはり三段階を立てている。第一の段階は根本悪の時代で、その中に善に傾向する素質(Anlage)はあるけれども悪の方が勝っている。つぎは善悪混戦の時代である。そのつぎは善が悪に打ち勝って純然たる善の時代となった時をいうのである。これを純善の時代と名づけたならばよかろう。このカントの純善の時代がすなわち理想教または倫理教の時代である。自分は仏教に対しても多大の興味を有しており、その影響を受けたこともまた少なくない。またクリスト教の道徳思想に対しても崇敬の念を抱いている。であるから、すべての点において、仏教に対してもクリスト教に対してもけっして反対ではない。しかしながら、全体からいうと、純然たる仏教徒でもなければまた純然たるクリスト教徒でもない。哲学上から見て、一般的普遍的宗教の立場にあるのである。それで仏教といわず、クリスト教といわず、その他いかなる宗教といわず、すべて理想教たる倫理教の趣旨に合する点はこれを信ずるけれど、多大の迷信を伴っているところの過去の遺物は全然これを排斥するのである。神道はもとよりわが国の民族教であるけれども、一面これを純粋化し、深刻化し、広大化し、真に最後の倫理的理想教たらしむることは果してできないであろうか。これ今後の研究に属する問題である。
 いったい、倫理と宗教と、かように人を律する二種のものが併立しているのは、過渡時
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