ん》としてズボンのかくしに手を入れ空を仰いで長嘯《ちょうしょう》漫歩しているふぜいである。空はまっさおに、ビルディングの壁面はあたたかい黄土色に輝いている。
こういう光景は十年前にはおそらく見られないものであったろう。この二人はやはり時代を代表している。
ジャズのはやるゆえんである。
四
一週に一度|永代橋《えいたいばし》を渡って往復する。橋の中ほどから西寄りの所で電車の座席から西北を見ると、河岸《かし》に迫って無骨な巌丈《がんじょう》な倉庫がそびえて、その上からこの重い橋をつるした鉄の帯がゆるやかな曲線を描いてたれ下がっている。この景色がまたなく美しい。線の細かい広重《ひろしげ》の隅田川《すみだがわ》はもう消えてしまった代わりに、鉄とコンクリートの新しい隅田川が出現した。そうしてそれが昔とはちがった新しい美しさを見せているのである。少し霧のかかった日はいっそう美しい。
邦楽座《ほうがくざ》わきの橋の上から数寄屋橋《すきやばし》のほうを、晴れた日暮れ少し前の光線で見た景色もかなりに美しいものの一つである。川の両岸に錯雑した建物のコンクリートの面に夕日の当たった部分は実にあたたかいよい色をしているし、日陰の部分はコバルトから紫まであらゆる段階の色彩の変化を見せている。それにちりばめた宝石のように白熱燈や紅青紫のネオン燈がともり始める。
白木屋《しろきや》で七階食堂の西向きの窓から大手町《おおてまち》のほうをながめた朝の景色も珍しい。水平に一線を画した高架線路の上を省線電車が走り、時に機関車がまっ白な蒸気を吐いて通る。それと直交し弓なりに立って見える呉服橋《ごふくばし》通りの道路を、緑色の電車のほかに、白、赤、青、緑のバスが奇妙な甲虫《コレオブテラ》のようにはい上りはいおり行きちがっている。遠くにはお城の角櫓《すみやぐら》が見え、その向こうには大内山《おおうちやま》の木立ちが地平線を柔らかにぼかしている。左のほうには小豆色《あずきいろ》の東京駅が横たわり、そのはずれに黄金色《こがねいろ》の富士が見える。その二つの中間には新議会の塔がそびえている。昔はなかったながめである。百年前に眠ったままで眠り通し、そうして今この窓で目ざめたとしたら……。いつもこんなことを考えながら一杯のコーヒーをすするのである。
震災前の東京は、高い所から見おろすと、ただ一面に鈍い鉛のような灰色の屋根の海であった。それが、震災後はいったいにあたたかい明るい愉快な色の調子が勝って来た。それと同時にそういう所で仰ぎ見る空の色が以前よりも深く青く見えだしたような気がする。これはコントラストのせいであろう。これほど著しい色彩の変化が都人の心に何かの影響を及ぼさないはずはないという気がする。
実際は東京の空気は年々に濁るはずである。自動車のガソリンの煙だけでも霧の凝縮核を供給することはたいしたものであろう。寒い曇天無風の夜|九段坂上《くだんざかうえ》から下町を見るといわゆるロンドンフォッグを思わせるものがある。これも市民のモーラルを支配しないわけにはゆかないであろう。
五
上野《うえの》のデパートメントストアの前を通ったら広小路《ひろこうじ》側の舗道に幕を張り回して、中に人形が動いていた。周囲に往来の人だかりのするのを巡査が制していた。なんとなく直感的にその幕の中には人が死んでいそうな気がしたが、夕刊を見るとやっぱり飛び降り自殺であった。あまり珍しくないそれであった。
それから数日後にまた同じ屋上庭園から今度は少しばかり前とちがって建物の反対側へ飛んだ女があった。そうして庭園はついに閉鎖された。
また数日たって某大学の構内を通ったら壮麗な図書館の屋上に立ってただ一人玄関前の噴水池を見おろしている人がある。学生であるか巡視であるか遠いのでよくわからなかったが、少し変な気持ちがした。その後さらに数日たって後、同じ大学の中央にそびえた講堂の三階から飛んだ学生があったという夕刊記事を読んで、また変な気持ちがした。この終わりの自殺者と、前の図書館屋上の人とはおそらくなんの関係もないかもしれないが、しかし自分の頭の中では前後四人の「屋上の人」がちゃんと一つの鎖でつながれている。
臆病者《おくびょうもの》の常として自分もしばしば高い所から飛びおりることを想像してみることがある。乾坤一擲《けんこんいってき》という言葉はこんな場合に使ってはいけないだろうが、自分にはそういう言葉が適切に思い出される。飛びおりてしまえば自分にはその建物もその所有者も、国土も宇宙も何もかも一ぺんに永久に無くなるのだから、飛ぶ場所の適否の問題も何もないであろうが、他の人にはやっぱり世界は残存しその建物と事件の記憶は残るであろう。
また数日たって後の雪の
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