、その研究者自身の頭の中まで潜り込む事が出来ない以上は、その人の得た結果を採用するという事にはやはりこのイズムの匂がある。
しかしそこまで考えて行くと、人間の知識全体から自分の直接経験から得たものを引去った残りの全部は、結局同じようなものではあるまいかと思われ出した。少なくも仮りに私が机の上で例えば大根の栽培法に関する書物を五、六冊も読んで来客に講釈するか、あるいは神田へ行って労働問題に関する書物を十冊も買い込んで来て、それについて論文でも書くとすればどうだろう。つまりはヘレン・ケラーが雪景色を描き、秋の自然の色彩を叙すると同じではあるまいか。
ここまで考えたが、事によるとこの最後の比較は間違っているかもしれないと思う。もう一度始めから考え直してみる必要がある。しかしもしこれが当を得ているとしたら、結局私は大根裁培法を論じていいものだろうか悪いものだろうか。もしこれが悪いとなると困るのは私ばかりではないかもしれない。
まあいずれにしても私の大根裁培法が巣鴨の作兵衛氏に笑われる事だけは確かだろうと思った。
こんな事を考えたのが動機となって、ふと大根が作ってみたくなったので、花壇の鳳仙花《ほうせんか》を引っこぬいてしまってそのあとへ大根の種を蒔《ま》いてみた。二、三日するともう双葉が出て来た。あの小さな黒の粒の中からこんな美しいエメラルドのようなものが出て来た。
私はもう本ばかり読むのはやめてしばらく大根でも作ってみようかと考えている。
[#地から1字上げ](大正九年十一月『改造』)
底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
1997(平成9)年6月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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