的大発見」の紹介などは、もちろんそうである。研究に忙しかるべき学者を、通俗講演や、科学の宣伝や、その他何々会議や何々委員や顧問に無暗《むやみ》に引っぱり出すのもそうである。
 そんなことで科学は奨励されるものではない。唯一の奨励法は、日本にアインシュタインや、ボーアのような学者を輩出させることである。もし、どうかしてそれが出来たら、いかに妨害しようと骨折ってももう駄目である。日本の科学は、ひとりで勃興するだろう。百の騒がしい宣伝よりは、一の黙った実例が必要である。
 アインシュタインや、ボーアは、おそらく通俗講演や宣伝の産物ではなかった。天才の芽が、静かな寂しい環境の内に、順当に発育したに過ぎないように思われる。
 現在の高等学校や大学の学生のうちにだって、そういう天才の芽生えがいないとは限らない。そういう芽を、狭い偏見で押しつぶさないことが大切である。そういうものがいよいよ芽を出し始めた時に、新聞で書き立てたり講演に引っぱり出したりしないことが肝要である。

         十六

 自分の周囲のものは大きく見えて、遠いものほど小さく見える。これは分りきった透視画法の原理である。
 専門学者から見ると、自分の専門に関する事柄が、目の前に大きく拡がって、それに直接関しない事柄は、きわめて小さく見え、あるいはまるで眼につかなかったりする事がある。これも分り切った事である。そして、それはそれで、差しつかえない。
 しかし、後進を誘掖《ゆうえき》する地位にいる時には、この事は注意しなければならない。自分が重要と考える問題は、必ずしも唯一な重要問題ではない。自分が見て軽小に見える事柄の内に、他人が見た時に、同じくらい重大なものが含まれているかもしれないということを忘れてはならない。
 恐ろしくつまらないと思われる事柄の中から、非常に重大なものの出現する例は基礎科学の世界にはいくらでもある。
「つまる」と「つまらない」とは、物に属しないで人に属する。つまらない事から、つまる事を掘り出すこともあれば、つまる問題からつまらない事のみ拾い出すこともしばしばである。
 科学の教育に当るものは、この一事を忘れてはならない。そして、後進の興味の赴くところに従って、自由な発育を遂げさせなければならない。

         十七

 入歯をこしらえた。
 何年来食ったことのなかった漬物などを、ばりばり音を立てて食うことが出来る。はなはだ不思議な心持がする。パンの皮や、らっきょうや、サラダや、独活《うど》や、そんなものでも、音を立てて食うことに異常な幸福を感じる。
 歯のいい人は、おそらく、この卑近な幸福を自覚する僥倖《ぎょうこう》を持たないに相違ない。
 この幸福がいつまで持続するか疑問である。たぶん一種の指数曲線か何かに従って、漸近的にゼロに向かって行くだろう。
 こんな幸福があまり持続しては、困る事だろう。幸福も不幸福も、変化の瞬間が最高点で、それからあとは、大地震の余震のように消えて行く。
 そのおかげで、われわれは、こうやって生きて行かれるのかもしれない。

         十八

 入歯は、やはり西洋人のこしらえ始めたものだろうと思う。
 西洋食を食っている間は、めったに入歯の困難は起らない。ところが、茶漬をかきこんだり、味噌汁を吸ったりすることになると、とかく故障が起りがちである。いわんや、餅や、飴などは論外である。
 これは何事を意味するか。
 入歯を、発明し、改良して来た西洋人が、もしわれわれと同じ食物を食って生きているのだったら、そうしたら、餅を食っても、飴を食っても、故障の起らないような入歯が、今頃は出来ているのではあるまいか。
 そうではないか、と思わせるだけの根拠は、外の方面にいくらでもありはしないか。
 日本人は、日本人の生活を基礎にした文化をこしらえなければならない。地震のある国は、地震のあるだけの建築をしなければならないし、餅をかじる人間は、餅をかじるような入歯をこしらえなければならないように、日本人は日本人の文化を組立てて行かなければならないのではないか。
 餅は食わないことにすればいいかもしれないが、地震をなくすることは困難である。いかにアメリカ人になりたがっても、過去二千余年の歴史は消されない。
[#地から1字上げ](大正十三年七月『週刊朝日』)



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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