そしてこの果敢《はか》ない影を捕えんとしては幾度か墓の※[#「門<困」、第4水準2−91−56]《しきい》に躓《つまず》いているのではあるまいか。凡《およ》そ何がはかないと云っても、浮世の人の胸の奥底に潜んだまま長い長い年月を重ねて終《つい》にその人の冷たい亡骸《なきがら》と共に葬られてしまって、かつて光にふれずに消えてしまう希望程はかないものがあろうか。
浮世の人はいかなる眼で彼を見るであろうか。各自の望みを追うに暇《いとま》のない世人は、たまに彼の萎《しな》びた掌《てのひら》に一片の銅貨を落す人はあっても、おそらくはそれはただ自分の心の中の慈善箱に投げ入れるに過ぎぬであろう。そして今特別の同情を以て見ている余にさえも、この何処の何人とも知れぬ人の記憶が長く止まっていようとも思われぬ。
彼はたぶん恋した事もあろう。そして過ぎ去った青春の夢は今|幾何《いくばく》の温まりを霜夜《しもよ》の石の床にかすであろうか。
彼はたぶん志を立てた事もあろう。そして今|幾何《いくばく》の効果を墓の下に齎《もたら》そうとしているのであろう。
このような取り止めのない妄想に耽っている間に、老人の淋しい影は何処ともなく消え去った。突然向うの曲り角から愉快な子供の笑い声が起って周圍の粛殺《しゅくさつ》を破った。あたかも老翁の過去の歓喜の声が、ここに一時反響しているかのごとく。[#地から1字上げ](明治三十四年十二月)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
※底本編集時に、亀甲括弧付きで以下の箇所に添えられた注は、削除しました。
「希望の影を追うている〔の〕ではあるまいか。」
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング