いかと疑わせる。もちろんこれも一つの臆測《おくそく》である。
やはり岱水で「二階はしごのうすき裏板」の次に「手細工に雑箸《ぞうばし》ふときかんなくず」があり、しばらく後に「引き割りし土佐《とさ》材木のかたおもい」がある、これらも一つの群と見られる。また「梅の枝おろしかねたる暮れの月」と「かれし柳を今におしみて」の二つもこの二つで一群をなし、なおまた前の三つの一群と合しそうな気もする。
最後に涼葉《りょうよう》十七句を調べてみた。「牛」が二頭いる。「草鞋《わらじ》」と「蓆《むしろ》」と「藁《わら》」、それから少しちがった意味としても「籠《かご》」と「駕《かご》」がある。それから「文」、「日記」の「紙」、それから「※[#「糸+旨」、第4水準2−84−21]《きぬ》」と「縞《しま》」がある。これらのものは、少なくも私には一つの観念群を形成しうるものである。これが全体十七句の五割以上を占領しているのは、よもや全くの偶然とは言われまい。
ここで以上にあげた作家のために一言弁じておかなければならないことは、これらの後世に伝わった僅少《きんしょう》な句だけを見て、これからこれらの作家の頭の幅員を論じてはならないことである。涼葉《りょうよう》にしたところが何もいつまでもこの、私がかりに texture complex とでも名づけるものばかりの周囲をぐるぐる回ってばかりいたわけではないであろう。
以上のような方法を芭蕉や蕪村《ぶそん》に及ぼして分析と統計とを試みてみたらあるいはおもしろい結果が得られはしないかと思うのであるが、自分で今それを遂行するだけの余裕のないことを遺憾とする。もし渋柿《しぶかき》同人中でこれを試みようという篤志家を見いだすことができれば大幸である。以上はただそういう方面の研究をする場合に役に立ちそうだと思われる方法の暗示に過ぎないのである。
こういうふうに、連句というものの文学的芸術的価値ということを全然念頭から駆逐してしまって統計的心理的に分析を試みることによって連句の芸術的価値に寸毫《すんごう》も損失をきたすような恐れのないことは別に喋々《ちょうちょう》する必要はないであろうと思われる。繰り返して言ったように創作の心理と鑑賞の心理は別だからである。しかし全く別々で縁がないかと言うとそう簡単でもない。それは意識の限界以上で別々になっているだけで、その下ではやはり連絡していると思われるからである。この点についてはさらに深く考究してみたいと思っている。ともかくも一度こういうふうに創作心理を分析した上で連句の鑑賞に心を転じてみると、おのずからそうする以前とはいくらかちがった心持ちをもって同じ作品を見直すことができはしないか。そうして付け合わせの玩味《がんみ》に際してしいて普遍的論理的につじつまを合わせようとするような徒労を避け、そのかわりに正真な連句進行の旋律を認識し享楽することができはしないかと思うのである。
専門の心理学者ことに精神分析学者の目で連句の世界を見渡せばまだまだおもしろい問題や材料は数限りもなく得られるであろうと想像される。そういう方面の学者でこの日本独特の芸術の分析的研究に手を着ける人が一人でもできれば喜ばしいことである。
[#地から3字上げ](昭和六年八―十月、渋柿)
六 月花の定座の意義
連句の進行の途上ところどころに月や花のいわゆる定座《じょうざ》が設定されていて、これらが一里塚《いちりづか》のごとく、あるいは澪標《みおつくし》のごとく、あるいは関所のごとく、また緑門のごとく樹立している。これは連句というものの形式的要素の中でもかなり重要なものであって、全体の構造上の締めくくりをつける留釘《リベット》のような役目をつとめているようである。いつごろからだれらが規定したものか、そういう由緒《ゆいしょ》来歴については自分はまだなんらの知識をも持たないのであるが、ただ自分で連句の制作に当面している場合にこれらの定座に逢着《ほうちゃく》するごとに経験するいろいろな体験の内省からこれら定座の意義に関するいくらかの分析を試みることはできるので、その考察の一端を述べてみたいと思うのである。
前に連句の付け合わせの心理的機巧を述べたときに詳説しておいたように、前句と付け句とは二つの個性の部分的重合によって連結されたものであって、連句の全体はそういうものの連鎖の一系列を形成している。従ってその連鎖のつながり方を規定するものは作者各自の個性のアンサンブルである。ところがそういう集団の組織は時と場合により多種多様であるから、もしそこになんらか外側から人工的に加えられた制限がないとしたら、その結果はどこへどうそれて行くか見きわめがつかないものになってしまうであろう。そういうものもまた一つの自由な詩形として成立しうるかもしれないが、しかしそれでは、それ自身としての存在を有するきまった足場の上に立つところの、従って一つのきまった名によって呼ばるべき詩形は成立し得ない。気ままにピアノの鍵盤《けんばん》をたたきまわっても一つの音楽であるかもしれないがソナタにはならないと同様である。そういう意味における統制的要素としての定座が勤めるいろいろの役割のうちで特に注目すべき点は、やはり前述のごとき個性の放恣《ほうし》なる狂奔を制御するために個性を超越した外界から投げかける縛繩《ばくじょう》のようなものであるかと思われる。個性だけでは知らず知らずの間に落ち込みやすい苟安自適《こうあんじてき》の泥沼《どろぬま》から引きずり出して、再び目をこすって新しい目で世界を見直し、そうして新しい甦生《そせい》の道へ駒《こま》の頭を向け直させるような指導者としての役目をつとめるのがまさにこの定座であるように思われるのである。
もっとも連句におけるいっさいの他の規約、たとえば季題や去《さ》り嫌《きら》いの定めなどもある程度まではやはり前述のごとき統制的の役目をつとめることはもちろんであるが、しかしこれらの制限と月花の定座の制限とでは言わば次元的《ディメンショナル》に大きな差別がある。前者の拘束範囲が一つの面であるとすれば、後者はその面内にただ一つの線を画するような感じがある。もしこういう拘束がなかったとすると各自の個性はその最も安易な出入り口にのみ目を向けるであろうが、定座の掟《おきて》によってそれらのわがままの戸口をふさがれてしまうので、そこでどうにかそこから抜け出しうべく許されたただ一筋の困難な活路をたどるほかはないことになる。しかしそこをくぐることによって、もしそうでなかったら決して生涯《しょうがい》見ることのなかったはずの珍しく新しい国を遍歴する第一歩を踏み出すことができるのである。もっともこのようなことは何も連句に限らず他の百般の事がらに通有ないわゆる「転機」の妙用に過ぎないので、われわれ人間の生涯の行路についても似よったことが言われるであろうが、そういう範疇《はんちゅう》の適切なる一例として見らるるという点に興味があるであろう。またそう見ることによって定座の意義が明瞭《めいりょう》となり、また制作に当たっての一つの指針を得ることができるであろうかと思われる。
そういう役目を月と花との二つに負わせた事にも興味がある。これは一つには古来の伝統による雪月花の組み合わせにもよる事であろうが、しかし月花の定座に雪を加えてはたしかに多すぎてかえって統率が乱れる。しかしいずれか一つではまたあまりに単調になる。だいたいにおいて春の花のほがらかさと、秋の月の清らかさとを正と負、陽と陰の両極として対立させたものであるに相違ない。音楽で言わば長音階と短音階との対立を連想させるものもある。もちろん定座には必ず同季の句が別に二句以上結合して三協和音のごとき一群をなすのであって、結局は春秋季題の插入《そうにゅう》位置《いち》を規定する、その代表者として花と月とが選ばれているとも言われる。そうしてこの二つのものが他の季題に比べて最も広い連想範囲をもちうるために代表者に選ばれたことも事実であろう。しかし自分のおもしろいと思うのは、この定座の月と花とが往々具体的な自然現象としてではなくむしろ非常に抽象的な正と負の概念としてこの定座の位置に君臨している観があるということである。もちろんそうでない場合もまたはなはだ多いようであるがだいたいにおいては自然にそうなるべきはずのものではないかと思われ、そういう意識をもって作句してもしかるべきではないかと思うのである。しかしこれについては、古来の作例について具体的に系統的な調べをした上でなければ確定的な議論はできないので、ここにはただ一つの研究題目として提出するにとどめておく。
定座の配置のしかたもまたはなはだ興味あるものである。表六句の中に月が置かれているのはこの一ページのうわずるのを押える鎮静剤のようなきき目をもっている。裏十二の中に月と花が一つずつあってこの一楽章に複雑な美しさを与える一方ではまたあまりに放恣《ほうし》な運動をしないような規律を制定している。月が七句目のへんに来ているのは、表の月に照応してもう一度同じテーマを繰り返すことによって表の気分を継承した形である。そうして名残《なごり》の表に移らんとする二句前に花が現われて、それがまさにきたらんとするほがらかな活躍を予想させるようにも思われる。さて、いよいよ名残《なごり》十二句のスケルツォの一楽章においては奔放自在なる跳躍を可能ならしむるため、最後から一つ前の十一句目までは定座のような邪魔な目付け役は一つも置かないことにしてある。しかしこの十一句目に至ってそこで始めて次にきたるべき沈静への導音《ライトトーン》ででもあるかのように月の座が出現する。そうしてその後につづく秋季結びが裏へその余韻を送るのである。かくしていよいよ最後の花の座が、あたかも静寂な暮れ方の空をいろどる夕ばえのごとき明るくはなやかなさびしさをもって全巻のカデンツァをかなでることになっているのである。
以上のごとく考えて来るとこの一見任意的であるかのごとき定座の定数やその位置がなかなか任意ではなくて容易には変更を許さないような必然性をもっているように思われて来るのである。それでこの規定はもちろん絶対ユニークなものではないまでも種々な可能なものの中から選ばるべき最良なるものの一つであることだけは確実であろうと思われる。
以上ははなはだ未熟な分析の試みであったが、このような見方を一つの作業仮説として実際の古人の連句中の代表的なものに応用してみることは、連句の研究上に一つの新断面を劈開《へきかい》するだけの効果はありはしないかと思われる。ここで実例について詳説することのできないのを遺憾とするが、読者のうちでもし上記の暗示を採用されていっそう具体的に詳細な研究を試みらるるかたがあれば大幸である。
なお、ここでは定座の標準位置のみについて論じたのであるが、実例についてこの定位からの偏差が実際いかなる範囲にいかなる様式で行なわれているかを研究してみるのもまた興味あり有益なる仕事であろうと思われる。また一方ではこの定座の発生進化に関する歴史的研究もはなはだ必要であるが、これについてはその方面の学者たちの示教を仰ぐほかはないのである。そうして単なる文献考証だけではなくして、そういう進化径路の有機的な系統に関する分析的な研究が遂げられる日の来るのを期待したく思うのである。
[#地から3字上げ](昭和六年十一月渋柿)
七 短歌の連作と連句
近ごろ岩波文庫の「左千夫歌論抄《さちおかろんしょう》」の巻頭にある「連作論」を読んで少なからざる興味を感じたのであるが、同時に連作短歌と連句との比較研究という一つの新しい題目が頭に浮かんで来るのであった。ところが、自分はまだ短歌連作というものについてはきわめて浅薄な知識しか持ち合わせていないから研究などというほどのまとまったことは到底できないであろうが、しかし取りあえず自分の感じたことだけを後日の参考としてここにしるしておくのも
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