いると、その句の面《おもて》に一つの扉《とびら》が開かれて、その向こう側に一つの光景なり場面なりが展開される。見ているうちにその視界がだんだんに上下左右にもまた前後にも広がって行き、そうしてその中にいたあるいは在《あ》った人物も風景も、それからそれへと活動写真のように変転推移して行く。もしこれをそのままに放任して行けば末はどこまで行くかわからない。しかし私は途中でこのあてなしの逍遙《しょうよう》を切り上げもう一ぺん元の所へ立ち帰り「前句」の場面に立ちもどってしかとこれを見直してみる。すると前には見えなかった別の扉のようなものがすうと開いて、それをはいって行くと前とはまたまるでちがった風物の花園が眼前に広がって行くのである。そういうことを繰り返していると単なる前句の十七字には無数の扉があり窓があって、それがみなそれぞれの世界への入り口であることに気づくのである。
 しかしこういう漫歩的見物をしているだけでは所要の付け句はできない。付け句を構成するためにはそれ以前に考慮さるべき若干の制約が規定されている。第一は季題に関するもので、たとえば「秋」あるいは「雑《ぞう》」でなければならないとすれば、前記の逍遙中に出会ったものはこれによって第一段の整理を受ける。次には前々句との関係による制約であって、前々句が海に関したものとかまた座敷に関したものであれば、それと同種のものは捨ててしまわなければならない。そこで材料は第二段の淘汰《とうた》を受けることになる。次には前々句よりももっと前の句列いったいへの考慮であって、そこにはたとえば人事の葛藤《かっとう》があまり多く連続しておりはしないか、あまりに多くの客観的風物がもたれ込んでおりはしないかを考えて、そこでさらに第三段の削除を行なわなければならない。まずこれだけの整理によってその後に保留されたものならば、それはいずれもある程度までは「求むる付け句」への候補者としての予選に堪えたものである。さて試みにその一つを取ってこれを前句に並列してよくよくながめてみる、するとそれは多くの場合にたいていはあまりに付き過ぎたものになっていることを発見するのが常である。これはむしろ当然なことである。私はただわずかに前句の壁の扉《とびら》を一つくぐったすぐ向こう側の隣の庭をさまよっているからである。この次に私は通例どうするかと思ってみると、その場合に採る一つの方法は、かくして得た付き過ぎの「第一次付け句」をとって、あたかも前に「前句」に対して行なったと同様な取り扱いをこれに適用するのである。そうして得たあらゆる隣接観念の世界に対して、以上の淘汰《とうた》整理をもう一ぺん行ない、そうして生き残った若干の結果の中から試みに「第二次の付け句」を構成して、それを再び「所定の前句」に対照してみるのである。そのようにして、第三次、第四次の付け句を作って行くうちには必ず少なくも自分では適当と思われるものの骨格だけは得られるのである。それでもどうしても思わしくない場合にはこれは断念放棄して、さらに第二の予選候補者を取り上げて同様な推敲《すいこう》に取りかかるのである。
 以上はただ付け句の素材だけについての選択の過程であって、それの表現法いかんについてはさらにまた全然別途の主要な作業が始まるわけであるが、そういう方面の問題はこの項ではいっさい触れないことにしようと思う。ともかくも普通はまず素材がきまってからその上での表現であるから、付け方の第一歩は、持って来る「もの」や「こと」の適否にあることはもちろんである。もっとも、少し立ち入って考えると、実際はそう簡単には言ってしまわれない。というのは、表現ということと素材というものとはそれほど切れ離れたものでなくて、同じ素材でも表現のしかたで完全に別の素材として完全なる役目を果たすことがありうるからである。しかしこの問題もここには手をつけないでしばらくそっとしておく。そうしてもっぱら自分の体験としての素材選択の心理的過程のみについて考えてみているのである。
 さて上記の付け句の制作過程は便宜上分析的に整頓《せいとん》してみただけであって、制作当時実際にこのとおりに意識的に行なっているのではない。場合によっては第四次第五次の付け句素材までが一分間ぐらいの間に相次いで電光のごとく現われては消えることもあり、また第一次の付け句の世界に足を踏み込んだきりなかなか抜けなくなり、一日も二日ももがかなければならないこともしばしばあるのである。
 このようにして、前句と後句とは言わばそれぞれが錯綜《さくそう》した網の二つの結び目のようなものである。また、水上に浮かぶ二つの浮き草の花が水中に隠れた根によって連絡されているようなものである。あるいはまた一つの火山脈の上に噴出した二つの火山のようなものでもある。しかしこれだけの関係ではあまりに二句の間の縁が近すぎ姿が似すぎて結果はいわゆる付き過ぎである。むしろ一つの非常に精巧な器械の二つの部分が複雑きわまる隠れた仕掛けで連結していて、その一方を動かすと他方が動きまた鳴りだすような関係である。それほどの必然さをもって連結されていて、しかもその途中のつながりが深い暗い室の中に隠れているような感じを与えるものが連句の上乗なものでありはしないかと思うのである。
 これについて思い出すのは近ごろの心理分析学者ことにフロイドの夢の心理に関する考察である。夢は東洋では五臓の疲れなどと言われ、また取り止めもないものの代表者としてあげられ、また一方では未来の予言者としてだいじに取り扱われもした。西洋でも同様であったらしい。しかしいわゆる「夢判断」はフロイドの多年の研究によって今までとはちがった意味をもって甦生《そせい》し、迷信者の玩弄物《がんろうぶつ》であったものがかえってほとんど科学的に真な本能的の「我れ」を読み取る唯一の言葉であるように思われて来たのである。顕在的なる「我れ」のみの心理を学んで安心していたわれわれは、この夢の現象から潜在的「我れ」の心を学び知って、愕然《がくぜん》として驚きまた恐れなければならなくなったようである。そうして私はまたこの夢の心理なるものがはなはだしく連句の心理に共有なる諸点を備えていることを発見して驚かなければならないのである。
 フロイドの考えでは顕在的な「夢内容」の底には潜在的な「夢思想」なるものが流動している。前者の表面的な並列はいわゆる夢のような幻影の無意味な行列に過ぎないのであるが、これらの「夢内容」を形成する象形文字のような影像を一つ一つ夢思想の国のこれに相当する言葉に翻訳してみれば、それはちゃんとした文章となり、そうしてそれは驚くべくおそるべきわが内部生活の秘密を赤裸々に記述するものとなるのである。しかもその一つ一つの象形文字のような夢内容は驚くべく多様な夢思想の圧縮されたエッセンスであり、またはなはだしく複雑な夢思想の網目の接合点である。それらの接合点のうちでも、その人のその日の、その前日の、また生涯《しょうがい》の経験――意識的ないし無意識的――の最も多くを結びつけるに都合のいいような、そういう特別な接合点が、その夜の夢の内容の一つとして象形文字的に選ばれて現われて来るのである。たとえばフロイドが「植物に関する彼の著書が彼の前に置かれてあり、そのぺージをめくっていると一枚の彩色絵がさし込んであり、また一枚の※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]葉《さくよう》がとじ込んである」という夢を分析した結果によると、この「植物学の著書」というだけの一見きわめて簡単なる内容が実は非常に多様な体験を接合するための一つの中間介在物であり、言わば扇のかなめのようなものになっている。すなわちこれはその日偶然通りかかったある店先で見た他人の他の事に関する植物学の著書につながると同時に、自分の昔書いたある論文につながり、次いでその論文に連関した大学研究室のいろいろの出来事につながり、また一方ではある眼科医へつながる。この眼科医とその前日現に出会って用談をしているうちに邪魔がはいって談を中絶された事があったのである。それからまたその「植物の」というだけがある他のプロフェッサーからその美しい夫人それから他の婦人患者といったふうにいろいろの錯綜《さくそう》した因果の網目につながっている。かくのごとくにしてこの一見はなはだつまらぬ「植物学の著書」はこれらの多数な夢思想の全体を引率するに最も適当な、扇のかなめのようなものとして便宜上代表的に選ばれてその夜の夢の顕在的夢内容として現われたというのである。
 連句の一句の顕在的内容は、やはりその作者の非常に多数な体験のかなめである。そうしてその多くの潜在的思想の網が部分的に前句と後句に引っかかっているのである。もちろん前句には前句の作者の潜在思想の網目がつながっているのであるが、付け句の作者の見た前句にはまたこの付け句作者自身の潜在的な句想の網目につながるべき代表的記号が明瞭《めいりょう》に現われているのである。そうしてまたこの二つの句を読む第三者がこの付け合わせを理解し評価しうるためにはこの第三者の潜在思想中で二句が完全に連結しなければならないのである。しかもこの際読者の網目と前句作者の網目と付け句作者の網目とこの三つのものが最もよく必然的に重なり合い融《と》け合う場合において、その付け合わせは最もすぐれた付け合わせとして感ぜられるのである。
 このような機巧によって運ばれる連句の進行はたしかにフロイドの考えたような夢の進行に似ているのである。しかし夢の場合はそれが各個人に固有なものであって必ずしもなんらの普遍性をもたなくてもよい。しかし連句においては甲の夢と乙の夢との共通点がまた読者の多数の夢に強く共鳴する点において立派な普遍性をもっており、そこに一般的鑑賞の目的物たる芸術としての要求が満足されているのである。
 以上のような連句と夢との心理の比較はまた連句の解釈という仕事に一つの新しい立場を与えるであろう。この立場から見ると従来の多くの連句の評釈は往々はなはだしく皮相的でありあるいは偏狭でありあるいは見当違いであるということになるかもしれない。また一方こういう立場から連句を研究することによって心理学者はわれわれの心理の潜在的過程に関して有益な幾多の事実を発見する機会に接するかもしれない。
 これらについてはなお述べ尽くさないところもあるが、紙面の制限のためにこれまでにとどめて余事は後日に譲ることとする。もしできれば若干の実例について分析を試みたいと思うのである。
[#地から3字上げ](昭和六年七月、渋柿)

     五 連句心理の諸現象

 連句制作の心理と鑑賞の心理とは必ずしも一致すると限らない。作者が前句を与えられてそれに付け句を提出するまでの心理的経過はその作者に独自なものであって当人以外にはだれにもわからないものである。しかし、そうしてできあがった一連を与えられた鑑賞の目的物とする読者がその前句を味わった後に付け句に取りついてそれをはっきり見定めている間に、その読者の頭の中に起こって来る心理的過程が少なくも部分的には付け句作者の創作当初の心理を反映しなければならない。そうでなければその付け句は失敗であり、不可解である。これはいかなる芸術にもある度までは共通なことであるが、小説や戯曲のようなものではこれは第一義に属しない従属的要素である。それは作物自身が読者の心理過程の軌道を明確に指定しているからである。言わば電車や汽車のレールのようなものである。これに反して連句の場合は、言わば町から町、宿場から宿場への旅の道筋を与えられないで、ただ出発点と到着点とを指定されるだけである。その間をつなぐ道筋はいくつもあり途上の景観にもまたさまざまの異同がある。それでも、どの道筋にも共通に、たとえば富士が右手に見え近辺に茶畑が見えなければならないといったような要求が満たされなければならない。そういうわけであるから連句の場合には特に創作心理と鑑賞心理との区別を立てて考察する必要があるのである。この区別
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