日」と「春駒《はるこま》」、「だびら雪」と「摩耶《まや》の高根に雲」、「迎いせわしき」と「風呂《ふろ》」、「すさまじき女」と「夕月夜|岡《おか》の萱根《かやね》の御廟《ごびょう》」、等々々についてもそれぞれ同様な夢の推移径路に関すると同様の試験的分析を施すことは容易である。
 こういうふうの意味でのアタヴィズムはむしろあるところまでは避くべからざることであるのはもちろん、連句の進行上少しも規約的に不都合なことはないのみならず、ある場合にはむしろテンポの調節上からも必要な場合があるかもしれない。しかし少なくも私の見たところで、こういう関係になっていない実例もまたはなはだ多いのである。たとえばやはり同じ『灰汁桶《あくおけ》』の巻で、芭蕉の「蛭《ひる》の口処《くちど》をかきて気味よき」や「金鍔《きんつば》」や「加茂の社」のごときはなかなか容易に発見されるような歯車の連鎖を前々句に対して示さない。また『鳶《とび》の羽』の巻でも芭蕉の「まいら戸」の句「午《ひる》の貝」の句のごとき、なんでもないような句であるが完全にこのアタヴィズムの痕跡《こんせき》を示さない。これに対して史邦《ふみくに》の「墨絵
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