言い換えると相当に年を取りそうしていわゆる苦労をしていなければできない仕事だということにもなりうるわけである。こういう立場から見ると、「連句する」ことも合奏することも、決してあだな娯楽や消閑の一相ではなくて、実は並みならぬ修行であり鍛錬であることがわかって来るのである。
 トリオやカルテットぐらいならば別に指揮者を必要としないが、少し楽器が多くなって管弦楽の形をとるようになれば、もはやそれは一人のちゃんとした指揮者なしには進行することができなくなる。それと同様に連句でもおおぜいの共同に成る場合には、おそらく一人の指揮者によって始めて最善の効果を上げうるのではないかと思われる。自分は芭蕉時代の連句がいかなる統率法によって行なわれたかという事についてなんらの正確な知識をもたないのであるが、少なくも芭蕉の関与したものである限り、いずれも芭蕉自身がなんらかの意味において指揮棒をふるうてできたものと仮定してもおそらくはなはだしい臆断《おくだん》ではないであろうと思う。
 管弦楽の指揮者は作曲者と同様に各楽器の特質によく通暁していなければならない。ラッパにセロの音を注文してはならない、セロにファゴ
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