弦楽器が多くは大小の曲線の曲線的運動で現わされ真鍮管楽器《しんちゅうかんがっき》が短い直線の自身に直角な衝動的運動で現わされたり、太鼓の音が画面をいっさんに駆け抜ける扇形の放射線で現わされたりする場合が多いようである。トランペットやトロンボンのはげしい爆音の林立が斜めに交互する槍《やり》の行列のような光線で示されるところもあったようである。
 なんだかちっともわからないようで、しかしなんだか妙におもしろいものである。これと非常によく似たものが他にどこかにあるようだと思ったら、それはいわゆるレヴューである。レヴューでは人間の集団で作った斑点《はんてん》や線条が舞台の上で離合集散いろいろの運動をする。あの斑点や線条の運動はなんの意味だかちっともわからない。しかしなんだかおもしろい。このレヴューからあらゆる不純なものをことごとく取り去ってしまったもの、ちぐはぐな踊り子の個性のしみを抜き、だらしのない安っぽい衣装や道具立てのじじむささを洗い取ったあとに残る純粋の「線の踊り」だけを見せるとすれば、それは結局このフィッシンガーの映画のようなものになるであろうと思われた。
 ずっと前に菊五郎《きくごろう》と三津五郎《みつごろう》の「棒縛り」を見ておもしろいと思ったことがあった。あれのおもしろさも煎《せん》じつめて考えてみると、やはり長い直線の大きな曲線的運動と、短い線の短い直線的運動の対立の交錯によって織りだされた「線の踊り」のおもしろみであったような気がする。
 舞踊というものをその幾何学的運動学的要素に一度解きほごして、それから再び踊りというものを構成するとすればその第一歩はおそらくこの映画のようなものになりそうである。そういう意味でわが国の舞踊家ならびに舞踊研究家にとってもこの映画は必ず一見の価値があるであろうと思われる。一方ではまた純粋音楽というものの「空間化」の一つの試みとして音楽家ならびに音楽研究家にとっても多少の興味がありそうである。これは決して音楽を冒涜《ぼうとく》するものではなくて、音楽の領域に新しきディメンジョンを付加することの可能性を暗示するものではないかと思われる。これが、別に頼まれもせぬ自分がこの変わった映画の提燈《ちょうちん》をもって下手《へた》な踊りを踊るゆえんである。
[#地から3字上げ](昭和九年一月、東京朝日新聞)



底本:「寺田寅彦随筆集
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