めいき》におけるこれら実験の中のあるものはいくらか量的と言われうるものであったが、しかしこれらのすべては必ずしも今ごろ言うような量的ではなかったのである。この時代として最重要であったことは、「卵大」のガラス球についた「藁《わら》ぐらいの大きさの」管を水中に入れて「あたためると」ぶくぶく「泡《あわ》が出」、冷やすと水が管中に「上る」ことであった。また、銅球の中の水を強く吸い出すと急に高い音を立てて球がひしげたりした「こと」であった。あるいはむしろこういう「実験」をしてみようと思い立ったこと、それを実行した事であった。水が上ることが知られさえすればそれが何寸上ったかを計りたくなり、ポンプを引くのにひどく力がいればそれが何人力だか計りたくなり、そうしてそれを計る事ならばだれにでもできるのである。
 ガリレー、ゲーリケ以後今日まで同様なことがずっと続いて跡を絶たない。ヴォルタの電盆や電堆《でんたい》、ガルバニの細君の発見と言われる蛙《かえる》の実験いずれも質的なる画期的実験である。オェルステットが有名な実験をした時の彼自身の考えは質的にさえ勘違いしていた。ルムフォードの有名な実験は「水が沸きさえもした」事に要点があった。ロバート・マイヤーがフラスコの水を打ち振った後にジョリーの室《へや》へ駆け込んで "Es ischt so !" と叫んだのは水が「あたたまった」ためで、それが何度点何々上ったためではなかったのである。ロェンチェン線の発見が学界を驚かしたのはその波長が幾オングストロェームあったためではなく、そういうものが「在《あ》る」ということであった。ベクレル線も同様であった。シー・ティー・アール・ウィルソンの膨張箱の実験が画期的であったゆえんはまず何よりも粒子の実在を質的に実証した点であった。ラウエ、菊池《きくち》の実験といえども、まず第一着に本質的に何よりもだいじなことは「写真板の上にあのような点模様が現われる」ことであった。それが現われた上での量的討究の必要と結果の意義の大切なことはもとより言うまでもないことであるが、第一義たる質的発見は一度、しかしてただ一度選ばれたる人によってのみなされる。質的に間違った仮定の上に量的には正しい考究をいくら積み上げても科学の進歩には反古紙《ほごがみ》しか貢献しないが、質的に新しいものの把握《はあく》は量的に誤っていても科学の歩みに一
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