計的質的現象の周到なる実験的研究と、それの結果の質的整理から量的決算への道程の中に拾い出されはしないであろうか。
要するに、従来のいわゆる統計物理学は物理学の一方の庇《ひさし》を借りた寄生物であったのであるが、今ではこの店子《たなこ》に主家《おもや》を明け渡す時節が到来しつつあるのではないか。ほんとうの新統計的物理学はこれから始まるべきではないか。これはもちろん筆者のはなはだ気違いじみた空想であるかもしれないが、ともかくも多くの人の少なくも一応は考慮してもよい事ではないかと思うのである。
最後についでながら私が近ごろ出会ったおもしろい経験をここにしるしておこう。それはある会合の席でプランクトンの調査に関する講演を聞いた時、「今回のわれわれの調査はまだ単に量的であって質的の点までは進んでいない」という言葉を聞いて愕然《がくぜん》として驚いたのであった。物理学者にはいつでも最初が質的で次に量的が来るのに、ここではそれが正反対なのである。しかしあとでよく考えてみると、物理でもやはりプランクトンと同様なものを、水産学におけると同様に取り扱っていることは少しも珍しくない。つい近くまでわれわれは鉄の弾性とか磁性とかいうことを平気で言って、その「鉄」を作る微晶や固溶体のプランクトンの人別調べは略していた。何万ボルトの電撃という一語であらゆるサージの形を包括していた。放電間隙《ほうでんかんげき》と電位差と全荷電とが同じならばすべてのスパークは同じとして数えられた。すなわちわれわれはやはり量を先にして質をあとにしていたのであった。このある日の経験は私に有益であった。われわれが平生あまりに簡単に質的量的ということを考え過ぎているということを痛切に反省させられたのであった。
以上未熟な考察の一部をしるして貴重なる本誌の紙面をけがし読者からのとがめを招くであろうことを恐れる。紙数の限りあるために意を尽くさない点の多いのを遺憾とする。ただ量的にあまりに抽象的な、ややもすれば知識の干物の貯蔵所となる恐れのある学界の一隅《いちぐう》に、時々は永遠に若い母なる自然の息を通わせることの必要を今さららしく強調するためにこんな蕪辞《ぶじ》を連ねたに過ぎないのである。若くてのんきで自由な頭脳を所有する学生諸君が暑苦しい研学の道程であまりに濃厚になったであろうと思われる血液を少しばかり薄めるための一
前へ
次へ
全9ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング