もほんとうにそう思う。
 これだけの好意を人から寄せられるには、やはりよせられるだけのある物があったに相違ない。そのある物がこの世に残っている限り、死ぬという事はそんなにさびしい事ではあるまい。
 亮には一人の子供もなかった。そして子供をほしがっていた時代もあった。死の迫るを知った時になってどう思ったかわからないが、ただなんとなくそれがさびしくはなかったかと思う。
 亮《りょう》はたしかに弱い男には相違なかった。しかし自分の弱さと戦う戦士としては決して弱くなかった。平静な水面のような外見の底に不断に起こっていた渦巻《うずまき》がいかに強烈なものであったかは今私の手もとにある各種の手記を見ればわかる。そういう意味で亮は生まれつき強い人々よりも幾倍も強い男であったかもしれない。
 亮のような柔らかい心臓と彼のような透明な脳とを同時にもって生まれるという事は、現世にあっては不幸な事かもしれない。防御のない急所を矢弾《やだま》の雨にさらすようなものかもしれない。その上にまた亮は弱い健康には背負いきれない「生」の望みを背負っていた。そういう不調和の結合から来るいろいろの苦悩は早くから亮の心を宗教に向かわせた。始めはキリストの教えを通ってついには親鸞《しんらん》の門にはいった。最後にどこまで進んでいたかはわからないが、ただ彼の短い生涯《しょうがい》が決してそれほど短いものでなかったという事だけは言えるように思う。
[#地から3字上げ](大正十一年五月、明星)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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