どかな春永《はるなが》の空気があった。
私のみならず、家内じゅうのだれともめったに口をきいている事はまれなようであったが、ただ夕飯の膳《ぜん》にきまって添えられた数合の酒に酔って来ると、まるで別人のように気軽く物を言った。四人の子供や私などを相手にしていろいろの昔話をした。若い時分に東京で習ったとかいう講釈師の口まねをしたりして皆を笑わせた。藩兵になって日比谷《ひびや》の藩公邸の長屋にいた時分の話なども、なんべん同じ事を聞かされても、そのたびに新しいおもしろみとおかしみを感じさせた。それで子供らは、そういういくつかの取っておきの話の中から、あれをこれをと注文して話させては笑いこけるのであった。夏になると裏の畑に縁台を持ち出して、そこで夜ふけるまで子供を肴《さかな》にして酒をのんでいた。どうかすると、そこで酔い倒れてしまったのを、おおぜいで寝間までかつぎ込んだものである。どうかするときげんのよくない時もあって、そういう時は子供らは近づいてはいけない事になっていた。
春田は十二三年前に五十余歳で喉頭癌《こうとうがん》のためにたおれた。私の見た義兄は、珍しく透明な、いい頭をもっていて、世態人情の奥の底を見透していた人のように思われる。それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸《ひょういつ》なふうがあった。
郷里の親戚《しんせき》や知人の家へ行けば、今でも春田のかいた四君子や山水の絵の襖《ふすま》や屏風《びょうぶ》が見られる。私はそれを見るたびに、楊枝《ようじ》をかみながら絵絹に対している春田居士《しゅんでんこじ》を思い浮かべる。その幻像の周囲にはいつものどかな春の光がある。
亮《りょう》の生まれた時の事を私は夢のように覚えている。当時亮の家には腸チブスがはいって来て彼の兄や祖母や叔父《おじ》が相次いで床についていたので、彼の母はその生家、すなわち私の家に来て産褥《さんじょく》についた。姉の寝ていた枕《まくら》もとのすすけた襖《ふすま》に、巌《いわお》と竹を描いた墨絵の張りつけてあった事だけが、今でもはっきり頭に残っている。
少年時代の亮について覚えている事はきわめてわずかである。舌のさきを奥歯にやって、それをかみながら一種の音を立てる癖があった事を思い出す。これが父の楊枝をかむ癖と何か関係があったかどうかはわからない。それから何かのおりに、竹の切れはしで、
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