わしている所がいちばん『忘れる』に適している。」
 その翌日の記事には、
「きのう芝居から帰りに、そばやしるこを食い過ぎたため胃のぐあいが悪い。学校を休む事にきめる。弟も休んでいる。絵をかいて暮らした。夜は末広亭《すえひろてい》へ雨がどしどし降るのに出かける。かなり大きな薄暗い小屋に二三人しか客が見えない。語る人も聞く人もさびしい。帰りはまたそばやで酒を飲んだ。」
 心のさびしさが不養生をさせ、その結果がさびしさを増していたのである。
 四十三年一月下旬に父の春田居士《しゅんでんこじ》が死んだ。その年の三月から亮《りょう》は学校へ出るのを全くやめて、あてもなく総州《そうしゅう》へんを旅行したりしていたらしいが、いよいよ神経衰弱がひどくなって、とうとう四月に国へ帰ってしまった。前に言ったように四十四年に再び引きずられるように上京して、私の近所の下宿から学校へ通《かよ》っていたが、翌年にそれでもどうにか卒業した。
「……ことしで、はや、三度学校をしくじって、今度やっと末席で卒業する事ができた。しかし卒業したのはやはりうれしかった。そして神田《かんだ》の西洋料理でやった謝恩会へも出た。しかし黙ってすみのほうへ引っ込んでいた。」こんな事が「どうなりゆくか」と題した日記のノートの最後のページに書いてある。それでこの帳面は終わっているのである。卒業はともかくも亮《りょう》にとっても一つの一大転機であった。
 この世の中で最劣等の人間のごとく自分を感じていた亮は、彼を教えていた教授がたの目には決してそうばかりとは見えなかった。ある先生などは特に彼の頭のいい事を確かに認めていたらしい。それで卒業席次がいちばん下のほうであったにかかわらず、先生の推挙によってT県のF町の農学校の教諭として赴任することとなった。そして数年前に結婚して郷里に残してあった妻と、そこに始めて自分の家庭をもつようになった。
 かの地に行ってからの生活については私はあまり多くを知らない。しかしそこでの亮《りょう》はだいたいにおいて幸福であったらしく私には思われる。
 交際という事には全く慣れず、あらゆる実務という事に経験もなく趣味もなかった亮の赴任当座は、ずいぶんいろいろ困る事が多かったろうという事は想像するに難くない。おそらくあらゆる失敗を重ね、それについてあらゆる苦痛をなめたろうと想像される。「自己の頭の間違
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