いるかと思うと、惜しげもなくクリクリに剃りこぼしたままを、日に当てても平気でいる。
着物は何処《どこ》かの小使のお古らしい小倉《こくら》の上衣に、渋色染の股引《ももひき》は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて行くと、オーと重い濁った返事をする。貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐ろしく真面目な顔をして煙草《たばこ》をふかしながら沖の方を見ている。怒っているのかと始めは思ったがそうではないらしい。いつ見ても変らぬ、これが熊さんの顔なのであろう。
始めはこの不思議な店、不思議な熊さんを気味悪く思うたが、慣れてしまうとそんな感じもない。松原の外《はず》れにこんな店があってこんな人が居るのは極めて自然な事となってしまって、熊さんの歴史やこの店のいわれなどについて、少しも想像をした事もなく、人に尋ねてみる気も出なかった。もしこれで何事もなく別れてしまったら、おそらく今頃は熊さんの事などはとうに忘れてしまったかもしれぬが、ただ一つの出来事のあったため熊さんの面影は今も目について残っている。
一夜浜を揺がす嵐が荒れた。
嵐の前の宵、客のない暗い二階の欄干に凭《もた》れて沖を見ていた。昼間から怪しかった雲足はいよいよ早くなって、北へ北へと飛ぶ。夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠《こいねず》の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて来る。沖の奥は真暗で、漁火《いさりび》一つ見えぬ。湿りを帯びた大きな星が、見え隠れ雲の隙を瞬《またた》く。いつもならば夕凪《ゆうなぎ》の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻《うずま》いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴《ふうりん》も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。
浜辺に焚火をしているのが見える。これは毎夜の事でその日漁した松魚《かつお》を割《さ》いて炙《あぶ》るのであるが、浜の闇を破って舞上がる焔の色は美しく、そのまわりに動く赤裸の人影を鮮やかに浮上がらせている。焔が靡く度にそれがゆらゆらと揺れて何となく凄い。孕《はらみ》の鼻の陰に泊っている帆前船の舷燈の青い光が、大きくうねっている。岬の上には警報台の赤燈が鈍く灯って波に映る。何処
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