にかくこの活劇は私に色々な事を聯想させたが、しかし自然の事実からは人間の都合のいいモラルは必然には出て来なかった。
同じ薔薇の反対の側へ廻ってみると、そこにも一疋の蜂が居た。そして何かしらある仕事をしているのであった。
それは、さっき蜥蜴を攻撃したと同じ蜂かどうか分らないが、とにかく同じ種類のものであった。広い葉の上に止って前脚で小さな毛虫らしいものをしっかりつかまえて、それをあの鋭い鋏のような口嘴《くちばし》でしきりに噛みこなしていた。私が見付けた時にはそれがもうほとんど毛虫だか何だか分らないような団塊《かたまり》になっていたが、ただその囲りから突き出た毛束によってそう考えられたのである。断えず噛みながら脚で器用に団塊を廻して行くので、始めには多少いびつであったのが、ほとんど完全な球形になってしまって、もうどこにも毛などの痕跡は見えなくなってしまった。廻す拍子に一度危なく取落そうとしてやっと取り止めた様子は滑稽であった。蜂はやがてこの団子をくわえて飛び出そうとしたが、どうしたのかもう一遍他の枝に下りた。人間ならばざっと荷物をこしらえて試みにちょっとさげてみたというような体裁であった。そしてまたしばらく噛んで丸める動作を繰り返していた。からだ全体で拍子をとるようにして小枝をゆさぶりながらせっせと働いているところは見るも勇ましい健気《けなげ》なものであった。渋色をした小さな身体が精悍《せいかん》の気ではち切れそうに見えた。二、三分もすると急に飛び上がって一文字に投げるように隣家の屋根をすれすれに越して見えなくなってしまった。
私は毛虫にこういう強敵のある事は全く知らなかったので、この目前の出来事からかなり強い印象を受けた。そして今更のように自然界に行われている「調節」の複雑で巧妙な事を考えさせられた。そして気紛れに箸の先で毛虫をとったりしている自分の愚かさに気が付いた。そしてわれわれがわずかばかりな文明に自負し、万象を征服したような心持になって、天然ばかりか同胞とその魂の上にも自分勝手な箸を持って行くような事をあえてする、それが一段高いところで見ている神様の目にはずいぶん愚かな事に見えはしまいか。ついこんな事も考えた。
それから二、三日経って後に、同じ薔薇で同じような蜂が大きな毛虫を捕えるところを見る事が出来た。いきなり頭の方へ噛み付くと皮が破れて緑色の汁が玉のように吹き出した。それを引きずり引きずり高い葉へ高い葉へと登って行った。その間にも噛みこなす事は休まず続けているので、毛虫の形はだんだんに消えて緑がかった黒色の塊に変りつつあった。そのうちに蜂は一度羽根を拡げて強く振動させた、おそらく飛び上がろうとしたのであろうが、虫の重量はこの蜂の飛揚力以上であったと見えて少しも動かなかった。どうするかと思っていると、このやや長味のある団塊をうまく二つに食い切って、その片方を丁寧に丸めた後に、それを銜《くわ》えて前日と同じ方向へ飛んで行った。
立ち際にその尾部から一、二滴の透明な液体を分泌するのがよく見えた。おそらく噛みながら吸い取った毛虫の汁で腹が膨れた結果かもしれない。
残りの半分を今に取りに来るのではあるまいかと思ったので、ものの十分ほども待っていたその間に全く別の方向から同じような蜂が飛んで来て薔薇の上をしばらくあさっていたが、さっきの団子の残りの半分のつい近くまで行っても気付かないで、そのうちどこかへ飛んで行ってしまった。
二時間もたって見に行った時には、毛虫の半分の団塊はもうなくなっていた。それは何物が持ち去ったかよくは分らない。しかし多くの蜂について従来知られている事実から推してこの残りの半分も、それの正当な権利者の巣に搬《はこ》ばれたものと思ってもいいだろう。実際は他の巣の住民に横領されたかもそれは分らない。
私はこの蜂の巣を見付けたい、そしてこの珍奇な虫の団子がそこでいかに処理されるかを知りたいものだと思っている。
虫の行為はやはり虫の行為であって、人間とは関係はない事である。人として虫に劣るべけんやというような結論は今日では全く無意味な事である。それにもかかわらず虫のする事を見ていると実に面白い。そして感心するだけで決して腹が立たない。私にはそれだけで充分である。私は人間のする事を見ては腹ばかり立てている多くの人達に、わずかな暇を割いて虫の世界を見物する事をすすめたいと思う。[#地から1字上げ](大正十年七月『解放』)
底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
1997(平成9)年1月9日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2005年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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