て、ばらの莟《つぼみ》を選んで片はしから食って行くのである。去年はよく咲いたクリーム色のばらも今年はこのためにひどく荒らされてしまった。子供の時分に田舎の宅で垣根いっぱいに薔薇が植わっていたが、ついぞこんなに虫害を受けた事を記憶しない。都会の空気が濁っているために植物も人間と同じようにたださえ弱くなっているその上にこう色々な虫にいじめられては、いまにこうした植物は絶滅するのではないかと思う事もある。
こんな虫がだんだんに数を増して、それが皆人間などと平等な生存の権利を主張するようになったらどうだろう。そうなれば虫のためには人間の方が害虫であるに相違ない。薔薇の花でも何でも虫のためには必要なる栄養物質であるのを、人間が無用な娯楽のために独占しようとして虫をひねり潰すのは、虫から見ればかなり暴虐な事かもしれない。
ある日の昼食のあとで庭へ出て、いちばん毛虫の多くついた薔薇を見に行った。そして見当り次第に箸でつまんで処分していた。人間の立場からどうもこうしなければ仕方がないのである。
真円《まんまる》く拡がった薔薇の枝の冠の上に土色をした蜥蜴《とかげ》が一|疋《ぴき》横たわっていた。じっとしていわゆる甲良《こうら》を干しているという様子であった。しかしおそらくそんな生温かい享楽のためではなくて、これもまたもっとせっぱつまった生存の権利を主張するために何かを期待して狙っていたに相違ない。時々のそのそ這《は》い出しては、またじっとして意地のわるそうな眼を光らせている。事によるとこれは青虫でも捜しているのではないかと思われた、もしそうだとすると有難い訳だと思った。
たちまち眼の前に一つの争闘の活劇が起った。同じ薔薇の上に何物かを物色していた濃褐色の蜂が、突然ほとんど何の理由とも分らず、またなんらの予備行為もなく、いきなりこの蜥蜴の背に飛びかかった。そして右の後脚の附根と思う辺を刺したように見えた。
しかし蜥蜴はほとんど何事も起らなかったかのように、じっとしたまま、身じろき一つしなかった。そして数秒の後にまたのそのそと這い出して一寸くらいも歩いたかと思うと立止って小さな眼を光らせていた。
どういう訳で蜂がこのような攻撃をしたか、私には少しも見当が付かなかった。人間ならば商売敵という言葉で容易に説明さるべき行為の動機が、この場合に適用するかどうか、それは全く分らない。と
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