れほど著しい不幸には会わなかった。もっとも四十二の暮から自分で病気に罹《かか》って今でもまだ全快しない。この病気のために生じた色々な困難や不愉快な事がないではなかったが、しかしそれは厄年ではなくても不断に私につきまとっているものとあまり変らない程度のものであった。それでともかくも生命に別条がなくて今日までは過ぎて来た。
それで結局これから私はどうしたらいいのだろう。
厄年の峠を越えようとして私は人並に過去の半生涯を振り返って見ている。もう昼過ぎた午後の太陽の光に照らされた過去を眺めている、そして人並に愧《は》じたり悔やんだり惜しんだりしている。「有った事は有ったのだ」と幾百万人の繰返した言葉をさらに繰返している。
過去というものは本当にどうする事も出来ないものだろうか。
私の過去を自分だけは知っていると思っていたが、それは嘘らしい。現在を知らない私に過去が分るはずはない。原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。結果が起らなくてどこに原因があるだろう。重力があって天体が運行して林檎《りんご》が落ちるとばかり思っていたがこれは逆さまであった。英国の田舎である一つの林檎が落ちてから後に万有引力が生れたのであった。その引力がつい近頃になってドイツのあるユダヤ人の鉛筆の先で新しく改造された。
過去を定めるものは現在であって、現在を定めるものが未来ではあるまいか。
それともまた現在で未来を支配する事が出来るものだろうか。
これは私には分らない、おそらく誰にも分らないかもしれない。この分らない問題を解く試みの方法として、私は今一つの実験を行ってみようとしている。それには私の過去の道筋で拾い集めて来たあらゆる宝石や土塊や草花や昆虫や、たとえそれが蚯蚓《みみず》や蛆虫《うじむし》であろうとも一切のものを「現在の鍋」に打《ぶ》ち込んで煮詰めてみようと思っている。それには古人が残してくれた色々な香料や試薬も注いでみようと思っている。その鍋を火山の火にかけて一晩おいた後に一番鶏《いちばんどり》が鳴いたら蓋をとってみようと思っている。
蓋を取ったら何が出るだろう。おそらく何も変った物は出ないだろう。始めに入れておいただけの物が煮爛《にただ》れ煮固まっているに過ぎないだろうとしか思われない。しかし私はその鍋の底に溜った煎汁《せんじゅう》を眼を瞑《つむ》って呑み
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