や蛇が外皮を脱ぎ捨てるのに相当するほど目立った外見上の変化はないにしても、もっと内部の器官や系統に行われている変化がやはり一種の律動的|弛張《しちょう》をしないという証拠はよもやあるまいと思われる。
 そのような律動のある相が人間肉体の生理的危機であって不安定な平衡が些細《ささい》な機縁のために破れるやいなや、加速的に壊滅の深淵に失墜するという機会に富んでいるのではあるまいか。
 このような六《むつ》ヶしい問題は私には到底分りそうもない。あるいは専門の学者にも分らないほど六ヶしい事かもしれない。
 それにしても私は今自分の身体に起りつつある些細な変態の兆候を見て、内部の生理的機能についてもある著しい変化を聯想しないではいられない。それと同時に私の心の方面にもある特別な状態を認め得るような気がする。それが肉体の変化の直接の影響であるか、あるいは精神的変化が外界の刺戟《しげき》に誘発されてそれがある程度まで肉体に反応しているのだか分らない。
 厄年の厄と見做されているのは当人の病気や死とは限らない。家庭の不祥事や、事業の失敗や、時としては当人には何の責任もない災厄までも含まれているようである。
 街を歩いている時に通り合せた荷車の圧搾ガス容器が破裂してそのために負傷するといったような災厄が四十二歳前後に特別に多かろうと思われる理由は容易には考えられない。しかしそれほど偶然的でない色々な災難の源を奥へ奥へ捜《さぐ》って行った時に、意外な事柄の継起によってそれが厄年前後における当人の精神的危機と一縷《いちる》の関係をもっている事を発見するような場合はないものだろうか。例えばその人が従来続けて来た平静な生活から転じて、危険性を帯びたある工業に関係した当座に前述のような災難に会ったとしたらどうであろう。少なくも親戚の老人などの中にはこの災難と厄年の転業との間にある因果関係を思い浮べるものも少なくないだろう。しかしこれは空風《からかぜ》が吹いて桶屋が喜ぶというのと類似の詭弁《きべん》に過ぎない。当面の問題には何の役にも立たない。
 しかしともかくも厄年が多くの人の精神的危機であり易《やす》いという事はかなりに多くの人の認めるところではあるまいか。昔の聖人は四十歳にして惑《まど》わずと云ったそうである。これが儒教道徳に養われて来たわれわれの祖先の標準となっていた。現代の人間が四十歳
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