再びさびしい心持ちがした。
 ことしの十月十三日の午後彼は上野へ出かける途中で近所の某富豪の家の前を通ったら、玄関におおぜいの男女のはき物やこうもり傘《がさ》が所狭く並べられて、印絆纏《しるしばんてん》の下足番《げそくばん》がついていた。そうして門に向かった洋風の大きな応接間の窓からはラジオの放送が騒然と流れだしていた。なるほどきょうは早慶野球戦の日であると思った。それから上野へ行って用を足して帰るまで、至るところにこの放送の騒音が追跡して来た。罪人を追うフュリーのごとく追跡して来た。そうして宅《うち》へ帰ってみると、彼の二人の女の子がやはり茶の間のラジオの前にすわり込んで、ここでも野球戦の余響をまき散らしているのである。いったいおまえたちにはこれがわかるのかと聞いてみると「そうねえ」というあまり要領を得ない返事であった。とにかくこの放送を聞くことは現代に生きる事の一つの要件であるかもしれないと思われた。

 翌日の午後彼が大学正門を出て大急ぎで円タクに飛び乗ると、なんと思い違えたものか車掌がいきなり「どちらが勝ちましたか」と聞くのであった。しかしそれが当然その日の早慶野球第三回戦に関
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