れらの経験はこの空想的な老学者に次のようなことを考えさせた。いったい野球その他のスポーツがどうしてこれほどまでに人の心を捕えるのであろうか。
野球もやはりヒットの遊戯の一つである。射的でも玉突きでも同様に二つの物体の描く四次元の「世界線」が互いに切り合うか切り合わぬかが主要な問題である。射的では的が三次元空間に静止しているが野球では的が動いているだけに事がらが複雑である。糊《のり》べらで飛んでいる蠅《はえ》をはたき落とす芸術とこの点では共通である。
近ごろボルンが新しい統計的物理学の基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上のりんごを射落とす話を引き合いにだした。昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、新しい物理学者は到底越え難いある「不確定」の限界を認容することになった。いわば昔はただ主観の不確定性だけを認めて客観の絶対確定性を信じていたのが今では不確定性を客観的実在の世界へ転籍させた。この考えの根本的な変遷はいわゆる「因果律」の概念にもまた根本的の変化を要求する。しかしそれは単に原子電子の世界に関する事ばかりでなく、これらの原子電子から構成されているすべての世界における因果関係に対する考え方の立て直しを啓示するように見える。
いかに現在の計測を精鋭にゆきわたらせることができたとしても、過去と未来には末広がりに朦朧《もうろう》たる不明の笹縁《ささべり》がつきまとってくる。そうして実はそういう場合にのみ通例考えられているような「因果」という言葉が始めて独立な存在理由を有するということには今までおそらくだれも気がつかなかったのではないか。
こういう漠然《ばくぜん》たる空想をどこまでもとたどりたどって行った末に、彼は、確定と偶然との相争うヒットの遊戯が何ゆえに人間の心をこれほどまでに強く引きつけるかという理由をおぼろげながら感得することができるような気がした。同時に物質確定の世界と生命の不定世界との間にそびえていた万里の鉄壁の一部がいよいよ破れ始める日の幻を心に描くことさえできるような気がしたのである。
その曲がった脊柱《せきちゅう》のごとくヘテロドックスなこの老学者がねずみの巣のような研究室の片すみに、安物の籐椅子《とういす》にもたれてうとうととこんな夢を見ているであろう間に、
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