は「オーイ早く菓子を持って来い」と大声で云おうとするが舌がもつれて云えない。そこで眼がさめたが、何だかうなされて唸《うな》っていたそうである。
 これも前日か前々日の体験中に夢の胚芽らしいものが見付かる。食卓でちょっと持出されたダンテ魔術団の話と、友人と合奏のときに出たフォイヤーマンのセロ演奏会の噂とでこの夢の西洋人が説明される。魔術が曲馬に変形してそれが猛獣を呼出したと思われる。それからやはり前夜の食卓で何かのついでから、ずっと前に動物園の猛獣が逃出した事のあった話をした。それが猛獣肉薄の場面を呼出したかもしれない。「御菓子を持って来い」がどうも分らないが、しかしその前々夜であったかやはり食後の雑談中女中にある到来ものの珍しい菓子を特に指定して持って来させたことはあったのである。
 麻糸の簾《すだれ》がライオンになる件だけは解釈の糸口が見付からない。こんなのをうっかりフロイドにでも聞かせると、とんでもないことになるかもしれないという気もするのである。
 上記の夢を見てから一と月も後に博物館で伎楽《ぎがく》舞楽能楽の面の展覧会があって見に行った。陳列品の中に獅子舞の獅子の面が二点あったが、その面に附いている水色に白く水玉を染出した布片に多分|鬣《たてがみ》を表わすためであろう、麻糸の束が一列に縫いつけてある。その麻糸の簾形に並んださまが、自分の夢に見た麻束の簾とよほどよく似ているのでちょっと吃驚《びっくり》させられた。
 この符合は多分偶然かもしれないが、しかしもしかしたら、以前に類似のお獅子をどこかで見たその記憶が意識の底に残留していたかもしれないという可能性を否定することも困難である。
 それにしても魔術師ないしセリストと麻束との関係はやはり分らない。事によるとこの麻束が女の金髪から来ているかもしれないが、しかし自分の記憶には金髪と魔術師また音楽者との聯想は意識されない。[#地から1字上げ](昭和十年一月『文芸春秋』)



底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
   1997(平成9)年3月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:砂場清隆
2005年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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