る「社会」といふ言葉を珍らしく感じた。恐らく此の言葉は始めて此の先生から聞かされたかも知れない。同じ人間の集団を人は国家、国民の名で呼ぶのを此の先生は社会といふ名で呼んで居たのである。
 先生はK市で一等の旅館延命軒の二階に下宿して居た。黄八丈のどてらの上に白縮緬の兵児帯、鳥打帽に白襟巻、それに赤皮の編上靴といふ全く独創的な出で立ちで本町の人通りを歩いて居ることもあつた。時には新地の妓楼に上つて豪遊をするさうだといふゴシップもあつたが、それが仮令事実であつても悪い感じはしない程に先生の行動は周囲から切り離されたものゝやうに見えたのであつた。
 当時の中学生には、夜間や日曜祭日に先生の私宅や下宿を訪問して遊ばせて貰ふことが流行して居た。勿論大抵最上級の生徒の、中でも元気でアムビシアスで、善いことにも悪いことにもリーダーになるやうな連中が三四人、五六人と連立つては、矢張若くて愉快な先生を訪問した。先生達の大学生時代の思出話などは最も濃厚に生徒等の夢を彩つた。或る先生は火鉢の炭火を火吹竹で吹き起して手づから餅を焼いて喰はせると同時に、自分でも迅速に且最多量に頬張りながら墨田川のボートレースの話をしたりした。又或る先生の処では正月前後にカルタ会を開き、新婚の夫人も交つて賑やかに夜を更かし、寒月の映る河岸を「鞭声粛々」で帰つて行つたりした。
 併し、大学出でもなく、スポーツもやらず、さうして鋭くて愛想気のない蓑田先生の宿を訪問する先徒は少かつたやうに見える。其の少数の訪問者のうちに、今此の思出を書いて居る筆者の私の前身であるところの十八歳の少年も交つて居た。
 宿屋の二階の先生の居室は他の多くの先生の室よりも一体に綺麗で明るく色彩に富んで居た。見た事もないやうな立派なトランクにべた/\色々のホテルの札を貼つたのも珍らしかつた。コスモポリタンとかレビュー・オヴ・レビュースとかさういふ雑誌を見せられて世界の出来事を話され、又パリのサロンの写真帳をひろげて、アムプレショニズムやポアンティリズムの講釈を聞かされた。此等の話は凡て当時の自分に取つては全く耳新しく眼新しいものばかりであつた。さうして自分の将来に見るべく聞くべき広い世界への憧憬の焔を燃え立たさせるのであつた。
 襖の紙の上に一枚の小さな油画が額縁もなしに画布のまゝピンで止めてあつた。それは黒田清輝画伯の描いた簡単な風景のスケッチであつたが、普通の油画とは余程変つた色彩と描法とが眼についた。先生の説明によると、それは絵具を解くのに石油を使つて、画布も特別なものを用ゐるといふことであつた。今考へるとアブソルバンのことであつたらしい。黒田画伯と蓑田先生とは同県で旧知の間柄であつたのである。此の一枚の油画にしても先生の身辺を繞る一種特別な雰囲気を色づけるに有力なものであつた。当時先生から話された具体的の事柄は大抵忘れてしまつた。恐らく多くは六ヶし過ぎて当時の田舎の中学生には理解出来ないやうな事が多かつたかも知れない。併し先生の元気な話を聞く事が自分には愉快であつた。何よりも愉快なのは、それ迄は唯一色のみにしか見えなかつた世の中が、思ひもかけなかつた色々の光で照らし出されることが可能であるといふ啓示《アポカリプス》であつた。
 自分等が中学校を出て、九州の高等学校へ行つて居る留守に蓑田先生はK市の中学を去つてしまつた。校長と喧嘩をした為といふ噂もあつた。去るに臨んで生徒を講堂に集めて旧思想打破の大演説をやつて職員一同色を失つたといふたよりも聞いた。其の演説を評して「六尺の音叉一時に振ふが如し」と手紙に書いて来た友人もあつた。其後の先生の消息に就いては、しばらく何事も知らないで数年を過ぎた。大学二年の夏休みに逗子へ遊びに行つて、夕方養神亭の裏の海岸を歩いて涼風に吹かれて居た時、とある別荘らしい家の門前で思ひもかけず出遭つたのが蓑田先生で、その別荘が即ち先生の別荘であつた。先生の方でも未だ自分の顔と名前を覚えて居てくれた。さうして久し振で昔に変らず元気で愉快な話を聞いた。一寸東京へ帰つて居たいから今夜一晩此処へ泊つて留守番をしないかといふことになつて、計らず先生の別荘に一夜を過ごした、さうして縁側の籐椅子に凭れて海を見ながら先生の葉巻を吹かし、風月のボン/\をかじり、生れて始めての綺麗な羽根蒲団で寝た。食事も養神亭から女中が運んでくれた、雨戸の開閉もやつて貰つて、留守番とはいひながら天晴れ一夜の別荘生活をしたのであつた。
 帰京後一度麹町区一番町の邸に先生を訪ねた。郷里の田地を売つて建てたといふ洋館の応接間に通されて、此処でも生れて始めての工合のいゝ安楽椅子に坐らされた。此頃ソーシオロジーを研究して居ると云つて色々の書物を見せられた。どういふ話のつゞきであつたか忘れたが「兎に角君は、人間何も別にえ
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