関する記憶の誤りや思い違いはあるにしても大体の事実に相違はないであろうと思われた。それで、これは夏目先生に関する一つの資料として保存しておけば他日きっと役に立つ機会があるであろうと思ったので、当時の大学理学部物理教室の自室の書卓の抽斗《ひきだ》しの中に他の大事な手紙と一緒に仕舞い込んでおいた。
 ところが、その後間もなく自分は胃潰瘍《いかいよう》にかかって職を休んで引籠ってしまったので、教室の自分の部屋は全くそのままに塵埃のつもるに任せて永い間放置されていた。そこへ大正十二年の大震災が襲って来て教室の建物は大破し、崩壊は免れたが今後の地震には危険だという状態になったので、自分の病気が全快して出勤するようになったときは、もう元の部屋にははいらず、別棟の木造平屋建の他教室の一室に仮り住いをすることになった。その時でもまだ元の教室の部屋は大体昔のままに物置のような形で保存され黴《かび》とほこりと蜘蛛《くも》の囲《い》の支配に任せてあったので従ってこのS先生の手紙もずっとそのままに抽出しの中に永い眠りをつづけていた訳である。
 その後自分の生活には色々急激な変化が起こった。関東震災のおかげで大
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