埋もれた漱石伝記資料
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)下唇を嘗《な》め廻した
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十年十一月『思想』)
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熊本高等学校で夏目先生の同僚にSという○物学の先生がいた。理学士ではなかったがしかし非常に篤学な人で、その専門の方ではとにかく日本有数の権威者だという評判であった。真偽は知らないが色々な奇行も伝えられた。日本にたった二つとか三つとかしかない珍しい標本をいくつか持っているという自慢を聞かされない学生はなかったようである。服装なども無頓着であったらしく、よれよれの和服の着流しで町を歩いている恰好などちょっと高等学校の先生らしく見えなかったという記憶がある。それはとにかく、その当時夏目先生と何かと世間話していたとき、このS先生の噂をしたら先生は「アー、Sかー」と云ってそうして口を大きく四角にあけて舌の先で下唇を嘗《な》め廻した。そうして口をつぶってから心持首をかしげるようにしてクスクスとさも可笑《おか》しいという風に先生特有の笑い方をした。そういうときに先生はきっと顔を少し赤くして何となくうぶな処女のような表情をするのであった。
その先生の笑いの意味が自分にはよく分らなかった。ただ畸人としてのS先生の奇行を想い浮べて笑われたのだろうというくらいにしか思っていなかった。
それから永い年月が経った。夏目先生が亡くなられて後、先生に関する諸家の想い出話や何かが色々の雑誌を賑わしていた頃であったと思うが、ある日思いがけなく昔のS先生から手紙が届いた。三銭切手二枚か三枚貼った恐ろしく重い分厚の手紙を読んでみると、それには夏目先生の幼少な頃の追憶が実に詳しく事細かに書き連ねてあるのであった。それによると、S先生は子供の頃夏目先生の近所に住まっていていわゆるいたずら仲間であったらしく、その当時の色々ないたずらのデテールが非常に現実的に記載されているのであった。
夏目先生から自分はかつて一度もその幼時におけるS先生との交渉について聞いた覚えがなかったので、この手紙の内容が全く天から落ちたものででもあるように意外に思われた。そうして何となくこれは本当かしらという気がするのであった。しかしS先生が意識して嘘をわざわざ書かれるはずはないので、詳細の点に関する記憶の誤りや思い違いはあるにしても大体の事実に相違はないであろうと思われた。それで、これは夏目先生に関する一つの資料として保存しておけば他日きっと役に立つ機会があるであろうと思ったので、当時の大学理学部物理教室の自室の書卓の抽斗《ひきだ》しの中に他の大事な手紙と一緒に仕舞い込んでおいた。
ところが、その後間もなく自分は胃潰瘍《いかいよう》にかかって職を休んで引籠ってしまったので、教室の自分の部屋は全くそのままに塵埃のつもるに任せて永い間放置されていた。そこへ大正十二年の大震災が襲って来て教室の建物は大破し、崩壊は免れたが今後の地震には危険だという状態になったので、自分の病気が全快して出勤するようになったときは、もう元の部屋にははいらず、別棟の木造平屋建の他教室の一室に仮り住いをすることになった。その時でもまだ元の教室の部屋は大体昔のままに物置のような形で保存され黴《かび》とほこりと蜘蛛《くも》の囲《い》の支配に任せてあったので従ってこのS先生の手紙もずっとそのままに抽出しの中に永い眠りをつづけていた訳である。
その後自分の生活には色々急激な変化が起こった。関東震災のおかげで大学に地震研究所が設立されると同時に自分は学部との縁を切って研究所員に転じ、しばらくの間は工学部のある教室のバラックの仮事務所に出入りしていて、研究所の本建築が出来上がると同時にその方に引越した。こうして転々と居所を変えている間にどうしたことか、元の部屋の机の抽出しの事をすっかり忘れてしまっていたのである。つい近頃になって「B教授の追憶」を書くときにふとそのB教授の手紙を想い出すと同時にこの抽出しとS先生の手紙を想い出したのであったが、今ではもう昔の教室の建物はすっかり取毀《とりこわ》されてしまって、昔の机などどうなったか行衛《ゆくえ》も分らず、ましてやその抽出しの中の古手紙など尋ねるよすがもなくなってしまった訳である。実に申訳のない次第である。
S先生の手紙の内容を想い出そうと骨折ってみても、もうどうしても想い出せない。ただ一つ、なんでも幼い夏目先生がどこかの塀の上にあがっていて往来人に何かぶっかけて困らせたと云ったようなことがあったような気がするだけである。要するに、具体的な事件は一つも覚えていないが、ただその手紙の全体としての印象は、先生が手のつけられない悪戯《いたずら》っ児《こ
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