先生に親しかった人々はよほど用心していないととかく自分等だけの接触した先生の世界の一部分を、先生の全体の上に蔽い被せてしまって、そうして自分等の都合のいいような先生を勝手に作り上げようとする恐れがある。意識的には無我の真情からそうするにしても結果においては先生にとって嬉しくないかもしれない。
場合によってはかえって先生の味方でなかったあるいは敵であった人々の方面からも隠れた伝記資料を求める事も必要ではないかと思うのである。敵の証言が味方のそれよりもかえって当人の美点を如実に宣明することもしばしばあるのである。
ただいずれの場合においても応用心理学の方でよく研究されている「証言の心理」「追憶の誤謬《ごびゅう》」に関する十分の知識を基礎としてそれらの資料の整理をしなければならないことはもちろんであるが、しかし整理は百年の後でも出来る。資料は一日おくれたら永久に失われる。私はこの機会に夏目先生に関するあらゆる隠れた資料が蒐集され記録される事を切望して止まないものである。[#地から1字上げ](昭和十年十一月『思想』)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:川向直樹
2004年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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