学生監の医者だそうな。)脈を取ったり血を検査したりしたが、別に何も云わないから、自分で胃潰瘍《いかいよう》だという事を話して吐血前の容体を云おうとしたが声を出す力がなくて、その上に口が粘ってハッキリ云う事が出来なかった。木下君も来た、金子さんや真鍋さんも来てくれた。杉浦さんが学校の毛布を持って来てくれてその上へねかされた。そのうちに志《し》んがやって来た。志んの顔には驚きと落着きとが一緒になっているように見えた。この教室の壁の中に妻の姿を見出した感じはよほど妙なものであった。二十年来切り離されていた教室と家庭という二つの別な世界が急に入り交じったような気がした。妻が枕元へ寄って来た時にはなんだかはりつめていた心が弱くなるような気がして涙が出そうになった。同時に自分は「そこに血がある、血がある」といって新聞紙で蔽った血痕を指して云った、自分の声が恐ろしく邪慳《じゃけん》に自分の耳に響いた。真鍋さんはしきりに例の口調で指図して湯たんぽを取りよせたり氷袋をよこさせたりした、そして助手を一人よこしてつけてくれた。白い着物をつけた助手は自分の脚の方に椅子へ腰をかけて黙って脇を向いていたが断えず此方《こちら》に注意していた。看護婦も一人来て頭の方に黙って控えていた。田丸先生が時々はいって来て黙って様子を見て行かれた。先生の顔が非常にやさしくなつかしく思われた。藤沢先生もソッと這入って来られたから挨拶しようとするのを手で押える真似をして脚元の椅子に腰をかけておられた。
 床の上に寝て仰ぎ見るすべての人の顔が非常に高い所にあるように思われた。そしてすべての人の好意と同情が自身の上に注がれるような気がした。落寞《らくばく》たる冷たいこの部屋の中が温かい住心地のよい所に思われた。K君も時々覗きに来たがこの人の堅い顔が少し赤味を帯びてたいそう柔らかにあるいはむしろ愉快そうにも見えた。室の入口の外の廊下には色々の人声がしていた、長岡先生のいつものような元気のいい改まった言葉も聞えた、真鍋さんが何か云うと佐野さんの愉快そうに笑う声も聞えた。金子さんも時々見に来てくれて親切に世話をやいてくれた。三浦内科に空室があるので午後三時頃入院するというので志んは準備に帰宅した。まちが代りに来て枕元に控えていた。
 柔らかい毛布にくるまって上には志んの持って来た着物をかけられ、脚部には湯婆《ゆたんぽ》が温かくていい気持になってほとんど何も考えないでウトウトしていたが眠られはしなかった。寒くはないかと皆が聞いたが寒いとも暑いともそういう感じはどこかへ逃げ去ってしまって、ただ静寂なそして幽遠なような感じが全身を領して三時の来るのが別に待遠しく思われなかった。
 寝台車に自分をのせる方法について色々の議論があるように聞えた。いよいよ寝台が来た、同時に職工や小使《こづかい》がドヤドヤ室内に入って来た。室の真中にある分析台の上に置いた品物がどこかへ片付けられた。自身は毛布を敷いたままで寝台に移されそれから寝台が大勢の手でかき上げられた。職工の中に吉江教授が交じって寝台に手をかけておられるのも目にはいった。室外の廊下に出て見ると高木さんや中川さんの顔も見えた。みんな外の方を向いて自分の顔を見ないように勉《つと》めているらしく思われた。ここで幌《ほろ》を着せられたから自分の眼界はただ方幾寸くらいのセルロイドの窓にかぎられてしまった。寝台はまた静かに持ち上げられて廊下をゆられて行った。廊下の曲り角を廻る時にはよくわかった。北の階段を下りる時には何だか少し気分が悪かった。いよいよ玄関を出る時、何となく大勢の人が好奇や同情やいろいろの眼で見送っているような気がした。いよいよ出かける時になって始めて中村先生の声がすぐ側に聞えた、松本君の元気のいい声も聞えた。車がそろそろ動き出すとついて来る人のいろいろの足音が聞え出した。セルロイドの窓から見える空は実に真青で美しかった。高い梢の枯枝が時々この美しい空に浮き出して見えた。車の中は暖かで、身体には何の苦痛もなかった、何のためにこうして送られて行くのかという気もした。自分が死骸になって送られていると想像してみた。病室までの道は予想に反して長くどこをどう通っているのかじきに分らなくなってしまった。ついこの間通りかかった時病室の端にある斜面から寝台車が引き上げられ病室の窓から大勢の人が覗いた時の光景を思いだした。車が止まって寝台がかき上げられた。廊下を通っている時はもう少し静かにやってもらいたいと思った。かついで行く人々は目的地の近付いたために無意識に急いでいるのだと思って黙っていた。幌が取り除かれると同時に狭い入口を通って病室にかき込まれた時いちばんに目についたのは灰色の壁であった。不愉快な灰色の高い壁は上の端で曲面を形作って天井につながっていた
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング