通の感覚の範囲外にある微妙な点があるのではあるまいか。人間でも意識の奥に隠れた自己といったようなものが、その人がらの美しさを決定する要素ではあるまいか。こんな事を考えながらベコニアの花をしみじみ見つめていると、薄弱な自分の肉眼の力ですら、花弁の細胞の一つ一つから出る生命の輝きを認めるような気もする。
 入院の翌日A君が菜の花を一束持って来てくれた。適当な花瓶《かびん》がなかったからしばらく金盥《かなだらい》へ入れておいた。室咲きであるせいか、あのひばりの声を思わせるような強い香がなかった。まもなく宅《うち》から持って来た花瓶にそれをさして、室《へや》のすみの洗面台にのせた。同じ日に甥《おい》のNが西洋種の蘭《らん》の鉢《はち》を持って来てくれた。代赭色《たいしゃいろ》の小鉢に盛り上がった水苔《みずごけ》から、青竹箆《あおたけべら》のような厚い幅のある葉が数葉、対称的に左右に広がって、そのまん中に一輪の花がややうなだれて立っている。大部分はただ緑色で、それに濃い紫の刷毛目《はけめ》を引いた花冠は、普通の意味ではあまり美しいものではないが、しかしそのかわりにきわめて品のいい静かに落ち着いた美しさがあった。これを、花やかに美しい、たとえばおとぎ話の王女のようなベコニアと並べて見た時には、ちょうど重々しく沈鬱《ちんうつ》なしかも若く美しい公子でも見るような気がした。花冠の下半にたれた袋のような弁の上にかぶさるようになった一片の弁は、いつか上に向き直って袋の口を開くだろうと思っていたが、とうとういつまでも開かなかった。
 そのうちにT君夫妻がまた大きなベコニアの鉢《はち》を持って来てくれた。それは宅《うち》から持って来たのに比べて数倍大きくみごとなものであった。この花が来てみると今まであったベコニアは急に見すぼらしい見る影もないものになってしまった。宅のは花の色ももう実際にいくらか薄くなったのだろう、これに比べて見ると今度のは全く目のさめるようにあざやかであった。古いほうのは室《へや》のすみの洗面台の上にやってしまって、この新しいベコニアを枕《まくら》もとに飽かずながめた。しかし不思議な事には蘭《らん》のさびしい花はこれに比べてもちっとも見劣りがしないのみか、かえって今までよりも強くこの花の特徴を主張するかと思われた。古い小さいベコニアはそれでも捨てるのは惜しかった。自分は時
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