安な、しかし不確かな前兆が長くつづいている間にだんだんに何物かが近よって来る。それが突然破裂すると危険はもう身に迫っている。しかし危険が現実になればもう少しも気味のわるい恐ろしさはない。
 病院の蒸気ストーブは数時間たつとだんだんに冷えて来る。冷えきったころにはまた前のような音がして再び送られて来る蒸気で暖められる。しかし昼間は、あの遠い所でする妙な音はいろいろな周囲の雑音に消されてしまうのか、ただすぐ自分の室のすみでガチャンガチャンと鳴るきわめて平凡で騒々しい、いくらか滑稽味《こっけいみ》さえ帯びた音だけが聞こえる。夜明け前の寂寞《せきばく》を破るあの不思議な音と同じものだとはどうしても思われない。
 自分の病気と蒸気ストーブはなんの関係もないが、しかし自分の病気もなんだか同じような順序で前兆、破裂、静穏とこの三つの相を週期的に繰り返しているような気がする。少なくも、これでもう二度は繰り返した。いちばんいやなのはこの「前兆」の長い不安な間隔である。「破裂」の時は絶頂で、最も恐ろしい時であると同時にまた、適当な言葉がないからしいて言えば、それは最も美しい絶頂である。不安の圧迫がとれて貴
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