眠りに包まれていた病室が急に生き生きした活気を帯びて来る。さらにこの活気に柔らかみを添えるのは、鉄をたたく音の中に交じってザブ/\ザブ/\と水のあふれ出すような音と、噴気孔から蒸気の吹き出すような、もちろんかすかであるが底に強い力と熱とのこもった音が始まる。このようないろいろの騒がしい音はしばらくすると止まって、それが次の室に移り行くころには、足もとの壁に立っている蒸気暖房器の幾重にも折れ曲がった管の中をかすかにかすかにささやいて通る蒸気の音ばかりが快い暖まりを室内にみなぎらせる。すると今まで針のように鋭くなっていた自分の神経は次第に柔らいで、名状のできない穏やかな伸びやかな心持ちが全身に行き渡る。始めて快いあくびが二つ三つつづけて出る。ちょうどそのころに枕《まくら》もとのガラス窓――むやみに丈《たけ》の高い、そして残忍に冷たい白の窓掛けをたれた窓の外で、キュル、キュル/\/\と、糸車を繰るような濁ったしかし鋭い声が聞こえだす。たぶんそれは雀《すずめ》らしい。いったいこの寒い夜中をどんな所にどうして寝ていたのであろうか。今一夜の長い冷たい眠りからさめて、新しい日のようやく明けるのを心から歓喜するような声である。始めの一声二声はまだ充分に眠りのさめきらぬらしい口ごもったような声であるが、やがてきわめて明瞭《めいりょう》な晴れやかなさえずりに変わる。窓の外はまだまっ暗であるが「もう夜が明けるのだな」という事が非常に明確な実感となって自分の頭に流れ込む。重苦しい夜の圧迫が今ようやく除かれるのだという気がすると同時にこわばって寝苦しかった肉体の端から端までが急に柔らかく快くなる。しばらく途絶えていた鳥の声がまた聞こえる。するとどういうものか子供の時分の田舎《いなか》の光景がありあり目の前に浮かんで来る。土蔵の横にある大きな柿《かき》の木の大枝小枝がまっさおな南国の空いっぱいに広がっている。すぐ裏の冬田一面には黄金色《こがねいろ》の日光がみなぎりわたっている。そうかと思うと、村はずれのうすら寒い竹やぶの曲がり角《かど》を鳥刺し竿《ざお》をもった子供が二三人そろそろ歩いて行く。こんな幻像を夢うつつの界《さかい》に繰り返しながらいつのまにかウトウト眠ってしまう。看護婦がそろそろ起き出して室内を掃除《そうじ》する騒がしい音などは全く気にならないで、いい気持ちに寝ついてしまうのである
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