得る言葉があるのが驚くべき事だとピアソンは云っている。しかしあるいはこれらの力の方則を表わすべき数式の第一項に対して第二項以下の小さい事に驚くと云わねばならぬ事になりはしまいか。少なくともそういう風に考える方が自然科学者の今日の立場としてむしろ妥当ではあるまいか。しかしこの疑問以上に立ち入る事は科学者の領域以外に踏み出すと思う。
こんな事を書いて公にしようというについて一つ考えなければならぬ事がある。すなわちかくのごとき漠然たる議論を並べた結果、一部の読者には誤解を生じまた一部の学者からは独断の邪説でとして攻撃される虞《おそれ》が甚だ少なくないように思う。ある読者はますますあるいは始めていわゆる精密科学の基礎の案外薄弱な事を考えて、その価値と効果を疑うかもしれない。しかし自分がここまで述べて来た事は正にこの点について疑いを解かんがためである。この疑いに対しては今まで述べた事をもう一遍繰返す外はない。そしてかくのごとき基礎の上に立った学問の効果は眼前の科学的文化である事を附け加えたい。次に学者の方から見れば、重力の方則等までも近似的と見做したりするような考えは幾多の非難があるかもしれない。実際こういうような考えはある意味において甚だ危険である。往々考えが形而上的に走り、罷《まか》り違えば誇大妄想狂となんら選む所のないような夢幻的の思索に陥って、いつの間にか科学の領域を逸する虞がある。この意味の危険を避けるために、どこまでも科学の立脚地たる経験的事実を見失わぬようにしなければならない。論理の糸を手繰《たぐ》って闇黒な想像の迷路を彷徨《ほうこう》しているうちにどこかで新しい出口を見付け、そこで事実の日光にまともに出くわすまでは何事も主張する権利はない事を心得ていなければならない。しかし懐疑と想像とは科学の進歩に必要な衝動刺戟である。疑い且《か》つ想像をめぐらす前に、先ず現在の知識の限界を窮《きわ》めなければならぬ事は勿論である。現在科学の極限を見極めずして徒《いたず》らに奇説を弄《ろう》するは白昼|提灯《ちょうちん》を照らして街頭に叱呼する盲者の亜類である。方則を疑う前には先ずこれを熟知し適用の限界を窮めなければならぬ。その上で疑う事は止むを得ない。疑って活路を求めるには想像の翼を鼓するの外はないのであろう。
現在の科学の基礎方則を疑うのは危険であっても、社会主義が国
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