の一本の棒を立てる。この棒に幾筋も横線を刻んで棒の側面を区分しておいてそれからその一区分ごとに色々な簡単な通信文を書く。例えば第一区には「敵騎兵国境に進入」第二区には「重甲兵来る」と云った風な、最も普通に起り得べき色々な場合を予想してそれに関する通信文を記入しておく。次にこの土器に水を同じ高さに入れておいてこの木栓を浮かせると両方の棒は同高になること勿論である。そこでこの容器の底に穴をあけて水を流出させれば水面の降下につれて栓と棒とが降下するのであるが、その穴の大きさをうまく調節すると二つの土器の二つの棒が全く同じ速度で降下しいつでも同じ通信文が同時に容器の口のところに来ているようになるのである。このような調節が出来たらこの二つの土器を、互いに通信を交わしたいと思う甲乙の二地点に一つずつ運んでおく。そこで甲地から乙地に通信をしようと思うときには先ず甲で松明《たいまつ》を上げる。乙地でそれを認めたらすぐ返答にその松明を上げて同時に土器の底の栓を抜いて放水を始める。甲地でも乙の松明の上がると同時に底の栓を抜く。そうして浮かしてある栓の棒がだんだんに下がって行って丁度所要の文句を書いた区分線が器の口と同高になった時を見すましてもう一度烽火をあげる。乙の方ではその合図の火影を認めた瞬間にぴたりと水の流出を止めて、そうして器の口に当る区分の文句を読むという寸法である。
話は変るが、一九一〇年頃ベルリン近郊の有名な某電機会社を見学に行ったときに同社の専売の電信印字機を見せてもらった。発信機の方はピアノの鍵盤のようなものにアルファベットが書いてあって、それで通信文をたたいて行くと受信機の方ではタイプライターが働いて紙テープの上にその文句をそっくりそのままに印刷して行く仕掛けである。この機械の主要な部分は発信機と受信機と両方に精密に同時に回転する車輪である。すべての仕掛けはこの車の同時調節《シンクロニゼーション》によって有効になるので、試みにわざとちょっとばかりこの調節を狂わせると、もう受信機の印刷する文句はまるきり訳の分からぬ寝言にもならない活字の行列になってしまうのである。
この二十世紀の巧妙な有線電信機の生命となっている同時調節《シンクロニゼーション》の応用も、その根本原理においては前記の古代ギリシアの二千何百年前の無線光波通信機の原理と少しも変ったことはないのである。
写真電送機械の機構にもやはり同様な原理が応用されている。この場合には土器を漏れる水の代りにフィルムを巻いた回転円筒が使われ、棒に刻んだ線を人間が眼で見て烽火を挙げる代りに真空光電管の眼で見た相図《あいず》を電流で送るのである。
自働電話の送信器の数字盤が廻るときのカチカチ鳴る音と自働連続機のピカピカと光る豆電燈の瞬きもやはり同じような考えを応用して出来た機構の産物であると見れば見られなくはないであろう。
このように、二千年前の骨董《こっとう》の塵の中にも現代最新の発明の種があるとすれば、同じ塵の中には未来の新発明の品玉がまだまだいくらも蔵されているかもしれない。
「アー、そんなものは君、もう二十年も前にドイツの何某が試みて失敗したものだよ」といったようなことをしたり顔に云って他人の真面目なそうして実際はかなり有望な独創的研究をあたまからけなしつけるようないわゆる大家も決して珍しくはない。「それは君、昔フランスでやったものだよ」と云って若い技師の進言を言下に退ける局長もまた珍しくはないであろう。これらの大家や局長がアイネアスの兵法を読んでいなかったおかげで電信印字機や写真放送機が完成したかもしれないのである。
三 御馳走を喰うと風邪を引く話
昔、自分の勤めていた役所にMという故参《こさん》の助手がいた。かなりの皮肉屋であったが、ときどき面白い観察の眼を人間一般の弱点の上に向けて一風変ったリマークをすることがあった。その男の変った所説の一例を挙げると、自分が風邪を引いて熱を出したりしたとき「アンマリ御馳走を喰べ過ぎるんじゃあないですか」と云ってはにやにや笑うのであった。
御馳走を喰うと風邪を引くというのは一体どういう意味だか分からなかった。御馳走を喰えば栄養になり、喰い過ぎれば腹下りを起こすくらいのことは知っていたが、この、医学者でも物理学者でも何でもない助手M君の感冒起因説は当時の自分の医学上の知識を超越していたのである。
しかし、その当時気のついていたことは、何かしら自分の研究仕事にうまい糸口が見付かってそれですっかり嬉しくなって仕事に夢中になる、そういう時にどうもきまって風邪を引くらしいということである。尤もこれとてもそういう時にひいた風邪だけが特に記憶に残るので、それでそういう片手落ちの結論に導かれたのかもしれないが、しかし、そうばか
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