必然だと思われるように表われているかが分るだろう。そればかりでなく如何に多くの新しい知識を吾人に教えているかが分るだろう。但しそれは何も作家の学問的知識から生れたものでなくて、芸術家としての鋭利な直感によるのが普通ではあろうが、ともかくもそこに現われているものは立派な科学的事実でしかも吾人にとって新しいものである。そうでない場合には浅墓な三面記事と選むところはないのである。
前に云った第一の方法、すなわち心理過程の追究を読者に任せる方法でも、その読者を導いて普遍的な心理的経験を遂行させる事が必要であるが、その作に価値を与えるためにはその経験が単に普遍であるのみならず、それが読者にとってなんらかの意味で新しいものであり、また更に新しい問題を提供するものでなければならない。それは必ずしも科学的なものでなくてもいいので、宗教的道徳的社会的のものでいいが、同様に科学的のものであってもいいのである。
ありのままの事実によらず、作者の想像を多く混入した写実派あるいは自然派の小説や戯曲のごときものは、もはや普通の意味において事実の叙述でない。しかしそうかと云ってそれはまた嘘でもない。ある真実なるものの描写でなければ何の価値があるだろう。このパラドックスは実は何でもない事である。ちょうど科学者がある実験を想像してその経過を既知の方則で導いて行くと同じように、作者は先ずある人間とその環境とを想定して、作者の把えていると信ずる一種の方則に照らして事件の推移を追究して行くのである。ただこの場合に科学の場合とちがうのは、その「方則」なるものが明白に単義的でなく、またいわゆる環境なるものの範囲が明白に制限し難い点にある。従ってその実験の結果もまた多義的であって、それの価値判断も困難である。しかし極端な場合を比較して見れば作者の「方則」や方法の差別は容易に分る。普通に批評家がある作物を見て、不自然であるとか、そうでないとかいうのはすなわち如上の意味においてである。この場合の標準になるものは勿論単に心理学的なものの外に非科学的なものがむしろ大部分を占めているのは通例ではあるが、そうかと云って作者は、この種の作物の構成方法が上の通りである限りは、全く科学的要素を度外視する訳には行くまいと思う。従ってこの種の作者は尠《すくな》くもその方面の科学的事実に対して考察を過《あやま》らないようにする必要があろうと思う。写実派自然派に対して理想派や浪曼的《ろうまんてき》の作品を見る時はよほど趣を異にする点が多い。これらのものの対象は「在るところの世界」よりはむしろ「在るべき世界」であるから、もはや科学の世界を離れている。取扱われている主資料は能知を離れた所知ではなくむしろ能知自身の活動である。この点においては、最初に挙げた詩と相類するようである。しかし抒情詩のごときものでは個々の作者の感情が強く主張されているのに、ここに挙げたものでは個人を超越した普遍的な能知の意志が活動していると見る事が出来よう。この種の作品の成効せるものではたとえ科学的の背理が現われていても、それを包括する能知の不思議な雰囲気のためにそれが邪魔にならないのである。このような不思議な世界に読者を導き入れるためには、特殊な手段を要することは勿論で、この種の作品がその資料を遠い過去や異郷に採るのみならず、その文体や用語に特別な選択をするを便利とする所以もまたここに在るのではあるまいか。
以上はただ典型的な二、三種のものについて、極めて概括的な考え方をしてみたに過ぎないので、実際の作品について云えば、種々複雑な問題が起るのは当然の事である。従って前述の考えにも幾多の変更や洗煉を加える必要の起る事も勿論である。ただこういう立場からもう少し深く考えてみる事も全く無用の業ではあるまいと思っている。更に進んで文学以外の芸術にも同様な考えを拡げて行くのも面白いだろうと思っている。[#地から1字上げ](大正十年一月『電気と文芸』)
底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「電気と文芸」
1921(大正10)年1月
※初出時の署名は「藪柑子」です。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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