文の大部分の主資料となるものは人間である。すなわち個々の能知者を捕えてこれを所知者として取扱おうというのである。この点において人間以外のものを取扱う場合とは自ずから異なる取扱い方の区別が生じる。第一の方法では材料になっている人間――無論それは他人と限った事はない、自分でもいい――をその外部に現われた行為や言語のみによって叙述して、その人間の能知者たる内部に立ち入らない。そういう意味から云えば劇のごときもこの類に入れられない事もない。もう一つの方法では、材料たる人間の心理にまで立ち入って叙述するのであるが、しかしその心理の推移はどこまでも純粋な所知として読者の前に展開されるのである。第一の方法は、事件や行為の裏に進行している人間の心理的の推移を直接読者の判断に推しつけるので、この場合の科学的要素はむしろ読者の方にある。作者は読者の心理学的機関に衝動を与え、その運転を導くような資料を提供するのであって、その作の価値はその資料の選択や、それを提供する順序や仕方によって規定される。これに反して第二の方法では科学的要素は直接に作物の上に現われているから、もし作者の科学に誤謬があれば、それは直ちに作物の価値に影響を及ぼす訳である。ただ幸いな事には心理学上の方則は物質科学のそれのように単義的な因果関係を与えない。そこには意志と称する非科学的な要素が強く作用しているために、一定の資料によって心理過程を単義的に予報する事が出来ない。従って、作者の心理過程の描写の正否を判断する標準が判然としていない。これは精神科学が物質科学ほどに堅固な地盤におかれていない所以である。同時にまたかくのごとき文学の可能な所以でもある。もしこれらの問題がことごとく科学的に片付けば、すべては、「学」になって、もう「術」はなくなってしまう。しかしそうは云うものの、人間の心理にはやはり科学的に取扱われ得る部分がかなりにある事は拒み難い事実である。それで吾人がこの種に属する作品を読む時に明白に心理学の知識と背反するような描写に出会った時には、吾人の見たその作物の価値は著しく減殺されるのである。そような場合の著しい実例は往々新聞の三面記事などに見出される。例えばある人の自殺の動機などについて驚くべき無理解な叙述に出会う事がしばしばある。これに反して著名な作家の作品を見れば如何にこれらの場合における描写が科学的に普遍で
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