には科学の範囲を脱して、科学ばかりではもう始末の付かぬ事は明らかである。この点に対する誤解から種々な謬見《びゅうけん》が生れる事は識者の日常目撃するところである。科学のどこを掘り返しても「不可不」は出て来ないし、その縄張りの中を隈なく捜しても「神」は居ない。そうして科学の中にこれがないという事は、それがどこにもないという証拠には少しもならない。もしそういう人があれば、それは室中を捜して魚が居ないというようなものである。
 芸術とは何であるか。これについては科学の場合のように簡単な定義を与える事は困難である。しかし前述の考えを対照させて次のごとく考える事も出来るだろう。
 芸術の成立するのは、云わば個々の能知者が所知者の中に入り込む時に始まる。あるいはまた所知者が能知者を反映する事によって可能である。しかしまだそれだけでは美的芸術の水平線に達する事は出来ない。能知者と所知者の結合を包括する全体が更に大きな普遍的で絶対的な能知を反映する事によって芸術たる価値が定まると考える事が出来るだろう。
 以上のごとき単純な側面観によって科学と芸術との任務や領域を遺憾なく説明しようというのではない。こういう考えから出発して、文芸の中に潜在する科学的要素を捜してみたいと思うのである。
 いかなる文芸といえどもその取扱う資料が常識を具えた人間界のものである限り、あらゆる知識中の科学的な分子を排出する事の出来ないのは明らかな事である。第一、文学は言語がなくては成立しない。ところが言語というものそれ自身はそれぞれ一つの小さな学である。一つの言葉が出来る前には人間の感覚知覚は経験と記憶聯想によって結合され、悟性によって幾多の分析抽象を行った末に一つの観念なり概念なりが出来なければならない。それで云わば一つ一つの言葉の中には既にもう論理的経験的科学の卵子が含まれていることは云うまでもない。しかし現今用いらるるような意味での科学はまだそれだけでは含まれていないと云ってもよい。
 そういう根本的な問題はしばらく措《お》いて、具体的に各種の文学の中に含まれている普通の意味での科学的要素の分布を考えてみよう。
 あらゆる文学の中でも最も著しく個々の能知者たる作者が所知者たる対象の中に没入して現われて来るのは詩歌ことに抒情的なそれである。そこには能知者がいっぱいに滲透して所知者の間のあらゆる科学的背理や
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