な絵は泰西名匠の絵画よりもある意味で科学的であると言わねばならない。ただしその概念が人々随意に異なり普遍的でない事は争われぬ。
 以上の程度までは物理学者も素人《しろうと》もあまり変わりはないようであるが、物理学者と素人と異なる所は普通人間にも存するこのような感覚をはなれた見方をどこまでも徹底させて行く点にある。物理学発達の初期には物理学者の見方はまだそれほど世人と離れていなかった。たとえば音響というような現象でも昔は全く人間の聴官に訴える感覚的の音を考えていたのが、だんだんに物体の振動ならびにそのために起こる気波という客観的なものを考えるようになり「聞こえぬ音」というような珍奇な言葉が生じて来た。今日純粋物理学の立場から言えば感覚に関した音という概念はもはや消滅したわけであるが因習の惰性で今日でも音響学という名前が物理学の中に存している。今日ではむしろ弾性体振動学とでもいうべきであろう(生理的音響学は別として)。光の感覚でも同様である。光覚に関する問題は生理学の領分に譲って物理学では非人間的な電磁波を考えるのみである。熱の輻射《ふくしゃ》も無線電信の電波も一つの連続系の部分になってしまって光という言葉の無意味なために今では輻射線という言葉に蹴落《けお》とされてしまったのである。
 今日のように非人間的に徹底したように見える物理学でもまだ徹底しない分子を捜せばいくらでも残っている。たとえば力という観念でも非人間的傾向を徹底させる立場から言えばなんらの具体的のものではなく、ただ「物質に加速度が生じた」という事を、これに「力が働いた」という言葉で象徴的に言いかえるに過ぎないが、普通この言葉が用いられる場合には何かそこに具体的な「力」というものがあるように了解されている。これは人間としてやみ難い傾向でまたそう考えるのが便宜である。また他の例を取れば物理学でも右左という言葉を用いる、しかしこれも人間というものから割り出した区別で空間自身には右もなければ左もあるはずはない。もしどこまでも非人間的な態度で行けば物理学の書籍からこのような言葉を除去しなければならぬはずであるが、実際は平気でこれを使用している、この一事でも非人間主義の物理学が人間の便宜のために膝《ひざ》を屈している事はわかるだろう。
 ある人は著者に物理学の教科書を幾何学教科書のような画一的なものにしたいものである
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