考えられぬのかもしれぬ。この人にとっては自分の触覚と肉感があらゆる実在で、自分の存在に無関係な外界の実在を仮定する事はわれわれほど容易でないかもしれない。象と盲者のたとえ話は実によくこの点に触れている。
 これはただ極端な一例をあげたに過ぎないが、この仮想的の人間の世界と吾人の世界とを比較してもわかるように、吾人のいわゆる世界の事物は、われわれと同様な人間の見た事物であって、それがその事物の全体であるかどうか少しもわからぬ。
 哲学者の中にはわれわれが普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、われわれ科学者としてはそこまでは疑わない事にする。世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。この意味ですべての科学者は幼稚《ナイヴ》な実在派《リアリスト》である。科学者でも外界の実在を疑おうと思えば疑われぬ事はないが多くの物理学者の立場は、これを疑うよりは、一種の公理として仮定し承認してしまうほうがいわゆる科学を成立させる筋道が簡単になる。元来何物かの仮定なしに学が成立し難いものとすればここに第一の仮定を置くのが便宜であるというまでである。絶対とか窮極の真理とかというものの存在を信じてそれを得ようと努力する人はこの点で第一に科学というものに失望しなければならない。科学者はなんらの弁証なしに吾人と独立な外界の存在を仮定してしまう。ただし必ずしもこれを信じる[#「信じる」に丸傍点]必要はない、科学者が個人としてこれ以上の点に立ち入って考える事は少しもさしつかえはないが、ただその人の科学者としての仕事はこれを仮定した上で始まるのである。もっともマッハのごときは感覚以外に実在はないと論じているが、彼のいわゆる感覚の世界は普通|吾人《ごじん》のいう外界の別名と考えればここに述べる所とはあえて矛盾しない。
 外界の事物の存在を吾人が感ずるのは前述べたとおり直接間接に吾人の五感の助けによるものである。これらの官能が刺激されたために生ずる個々の知覚が記憶によって連絡されるとこれが一つの経験になる。このような経験が幾回も幾回も繰り返されている間にそこに漠然《ばくぜん》とした知識が生じて来る。この原始的な知識がさらに経験によってだんだんに吟味され取捨されて個人的一時的からだんだんに
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