込んで、頭髪は多くは黙阿弥《もくあみ》式にきれいに分けて帽子はかぶらず、そのかわりに白張りの蝙蝠傘《こうもりがさ》をさしていた。その傘に大きく、たしか赤字で千金丹と書いてあったような気がする。小さな、今で言えばスーツケースのような格好をした黒塗りの革鞄《かわかばん》に、これも赤く大きく千金丹と書いたのをさげていたと思う。せんだんの花のこぼれる南国の真夏の炎天の下を、こうした、当時の人の目にはスマートな姿でゆっくり練り歩きながら、声をテノルに張り上げて歌う文句はおおよそ次のようなものであった、「エーエ、ホンケーワーア、サンシューノーオー、コトヒーラーアヨ。(休)。マツシーマーア、カデンーノーオー、センキーンーンタン」というふうに全く同じ四拍子アンダンテの旋律を繰り返しながら、だんだんに薬の効能書きを歌って行くのである。「そのまた薬の効能は、疝気疝癪《せんきせんしゃく》胸痞《むねつか》え」までは覚えているがその先は忘れてしまった。
子供らはこの薬売りの人間を「ホンケ」と呼んでいた。「ホンケが来たホンケが来た」と言って駆け出して行っては、この「ホンケ」を取り巻いて、そうして口々に「ホンケ、オーセ、オーセ」と言ってねだった。「オーセ」は「ちょうだい」という意味であるが、ここの「ホンケ」はこの薬売り自身をさすのではなくて、薬売りの配って歩く広告のビラ紙のことである。この人間の「本家」がまき歩くビラの「ホンケ」は、鼻紙を八つ切りにしたのに粗末な木版で赤く印刷したものであったが、その木版の絵がやはり蝙蝠傘《こうもりがさ》をさして尻端折《しりはしお》った薬売りの「ホンケ」の姿を写したものであった。いっしょに印刷してあった文字などは思い出せない。子供らにとってはこのビラ紙も「ホンケ」であり、それをくれる人間も「ホンケ」であったわけである。とにかく、このビラ紙をもらうのが当時のわれわれ子供には相当な喜びであった。今になって考えると実に不思議である。少年雑誌やおとぎ話の本などというもののまだ一つもなかった時代では、こんな粗末な刷り物でも子供には珍しかったのであろう。ずいぶん俗悪な木版刷りではあったが、しかし現代の子供の絵本のあくどい色刷りなどに比較して考えるとむしろ一種稚拙にひなびた風趣のあるものであったようにも思われる。
同じく昔の郷里の夏の情趣と結びついている思い出の売り声の中でも枇杷葉湯《びわようとう》売りのそれなどは、今ではもう忘れている人よりも知らぬ人が多いであろう。朱漆で塗った地に黒漆でからすの絵を描いたその下に烏丸《からすまる》枇杷葉湯と書いた一対の細長い箱を振り分けに肩にかついで「ホンケー、カラスマル、ビワヨーオートー」と終わりの「ヨートー」を長く清らかに引いて、呼び歩いていたようにも思うし、また木陰などに荷をおろして往来の人に呼びかけていたようにも思う。その声が妙に涼しいようでもあり、また暑いようでもあった。しかしその枇杷葉湯《びわようとう》がいったいどんなものだか、味わったことはもちろん見たこともなかった。そのころもうすでに大衆性《ポピュラリティ》を失ってしまって、ただわずかに過去の惰性のなごりをとどめていたのではないかと思われる。東京で震災前までは深川《ふかがわ》へんで見かけたことのあるあの定斎屋《じょさいや》と同じようなものであったらしいが、しかし枇杷葉湯のあの朱塗りの荷箱とすがすがしい呼び声とには、あのガッチンガッチンの定斎屋よりもはるかに多くの過去の夢と市井の詩とを包有していたような気がする。
生菓子をいろいろ、四角で扁平《へんぺい》な漆塗りの箱に入れたのを肩にかけて、「カエチョウ、カエチョウ」と呼び歩くのは、多くは男の子で、そうして大概きまって尻《しり》の切れた冷飯草履《ひやめしぞうり》をはいていたような気がする。それが持って来る菓子の中に「イガモチ」というのがあった。道明寺《どうみょうじ》の餡入《あんい》り餅《もち》であったがその外側に糯米《もちごめ》のふかした粒がぽつぽつと並べて植え付けてあった。ちょうど栗《くり》のいがのようだと言うので「いが餅」と名づけたものらしい。「カエチョウ」の意味は自分にはわからない。このはかない行商の一人に頭蓋骨《ずがいこつ》の異常に大きな福助のような子がいた。だれかが試みに一銭銅貨と天保銭《てんぽうせん》を出して、どちらでもいいほうを取れと言ったらはっきりと天保銭を選んだといううわさがあった。また、その生きている頭蓋骨をとっくにどこかの病院に百円とかで売ってあるのだという話もあった。
七味唐辛子《しちみとうがらし》を売り歩く男で、頭には高くとがった円錐形《えんすいけい》の帽子をかぶり、身にはまっかな唐人服をまとい、そうしてほとんど等身大の唐辛子の形をした張り抜きをひもで肩につる
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