の歩道を歩く人の細かな観察の結果からして、一つの統計的の結果をまとめ上げ、それから「平均人」の歩行経路を描き出すことも可能である。その結果から、「左側通行」の規則が、どの程度まで市民の頭にしみ込んでいるかを判断する一つの目安を定めることも可能である。
地理学のほうでは人口の分布や農耕範囲の問題などについて、興味ある物理学的統計学的研究をしている少壮学者もある。これはわれわれには非常におもしろく有益な試みであると思われるが、これも「人間のことに物理的方法に適用しない」という通有の誤解のために、あまり一般には了解されないようである。これも遺憾なことと思われる。こういう試みは、もっともっといろいろの方面に追求されるべきはずのものである。
これとは少し種類は違うが、細胞分裂の機構を説明する一つのモデルとして、表面張力の異同による液滴の分裂などを研究している学者もある。そういうおもしろい研究に対してもその研究題目それ自身に対していろいろの故障を申し立てる学者があると見えて、そういう「異端学者」の論文の中に、そういう故障への弁明の辞を述べ立てたのがおりおり見当たる。もちろんそういう簡単な無機的な現象の実験から、一足飛びに有機的現象の機構を説明しようというのならば、それは問題外であるが、研究者のほうではそれほど大胆な意図はもちろんあるはずはない。ただ遼遠《りょうえん》な前途への第一歩を踏み出そうとする努力の現われに過ぎないのである。しかしこの意図はほとんど常に誤解されがちである。「生物の事は物理ではわからぬ」という経典的信条のために、こういう研究がいつもいつも異端視されやすいのは誠に遺憾なことである。科学の進歩を妨げるものは素人《しろうと》の無理解ではなくて、いつでも科学者自身の科学そのものの使命と本質とに対する認識の不足である。深くかんがみなければならない次第である。
[#地から3字上げ](昭和八年四月、理学界)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公
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