直接の交渉を有せぬ量であって、自然現象を整理するに便宜な尺度の一つと考えなければなるまい。仕事の考えが定まればエネルギーの考えはこれから導かれる。すなわち仕事をなす能をエネルギーと名づける。ある現象が起ってその間に甲が乙に仕事をしたとすれば甲はエネルギーを有《も》っていたと考え、その一部または全体が仕事として費やされたと考える。仕事を受けた方はまたそれだけのエネルギーを受取ったと考えてよい。これもまた一つの便宜上の Begriff であって自然その物はこの Begriff の中には少しも含まれておらぬのである。かくのごとく定めた energy なるものがあらゆる変化に際して総和において変らぬというのがいわゆる勢力《エネルギー》不滅則である。
 仕事と云いエネルギーと云うのはどこまでも人間特に物理学者が便宜上採用した観念である。力という語や速度という語が世俗に通じやすくて仕事エネルギーの解しにくいのはそのためである。このような観念の結合連鎖によって組み立てた力学物理学は吾人にとって非常に便宜なものであるが、しかしまたこの建設物が唯一な必然なものだとは信じられない。現在と全く異なった一つの力学系統を構成する事は不可能ではあるまい。現在の系統は一朝一夕に発達したものではなく、ガリレー以来|漸《ぜん》を追うて発達して来たもので、種々な観念もだんだんに変遷し拡張されて来たものである。従って将来はまたどのような変化をし、またどのような新しい観念が採用されるようになるか、今日これを予言する事は困難である。
 光と名づけ音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺戟して万人その存在を認める。しかし「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味は尽されていない。昔ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルに到ってはこれをエーテル中の電磁的|歪《ひず》みの波状|伝播《でんぱ》と考えられるに到った。その後アインスタイン一派は光の波状伝播を疑った。また現今の相対原理ではエーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に光の本体に関しては今日に到るもなんらの確かな事は知られぬのである。それにも関らず光が一種のエネルギーであるという考えは
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