ウせる機能をもっており、従って「や」と同等である。実際「や」と「かな」とは本来の意味においてもたいした相違はないのである。
この作業仮説に従えば「唐崎《からさき》の松は花よりおぼろにて」も、松と花との対立融合によって立派に完結しているので、この上に「かな」留めにしては言いおおせ言い過ぎになってなんの余情もなくなり高圧的命令的独断的な命題になるのであろう。「にて」はこの場合総合の過程を読者に譲ることによって俳諧の要訣《ようけつ》を悉《つく》しているであろう。
発句は完結することが必要であるが連俳の平句は完結しないことが必要である。なんとなれば前句と付け句と合わせてはじめて一つの完結した心像を作ることが付け句の妙味であるからである。
連句は言わば潜在意識的象徴によって語られた詩の連鎖であって、ポオや仏国象徴派詩人の考えをいっそう徹底させたものとも見られないことはない。また一方では夢の世界を描いたようないわゆる絶対映画「アンダルーシアの犬」のごときものとも類似したものである。また連句は音をもってする代わりに象徴をもって編まれた音楽である。実際連句一巻の形式はソナタのごとき音楽形式とかな
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