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それはとにかく材料の選択と取り合わせだけではまだ発句はできない。これをいかに十七字の容器に盛り合わせるかが次の問題である。この点においても芭蕉一門の俳句は実に行くところまでいったん行き着いているように思われる。材料は割合に平凡でも生け方で花が生動するように少しの言葉のはたらきで句は俄然《がぜん》として躍動する。たとえば江上の杜鵑《ほととぎす》というありふれた取り合わせでも、その句をはたらかせるために芭蕉が再三の推敲《すいこう》洗練を重ねたことが伝えられている。この有名な句でもこれを「白露江《はくろえ》に横たわり水光《すいこう》天に接す」というシナ人の文句と比べると俳諧というものの要訣《ようけつ》が明瞭《めいりょう》に指摘される。芭蕉は白露と水光との饒舌《じょうぜつ》を惜しげなく切り取って、そのかわりに姿の見えぬ時鳥《ほととぎす》の声を置き換えた。これは俳諧がカッティングの芸術であり、モンタージュの芸術であることを物語る手近な一例に過ぎない。
俳諧は截断《せつだん》の芸術であることは生花の芸術と同様である。また岡倉《おかくら》氏が「茶の本」の中に「茶道は美を見いださんがために美を
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