、。上は摂政関白武将より下は士農工商あらゆる階級の間に行なわれ、これらの人々の社会人としての活動生活の侶伴《りょはん》となってそれを助け導いて来たと思われる。風雅の心のない武将は人を御することも下手《へた》であり、風雅の道を解しない商人はおそらく金もうけも充分でなかったであろうし、朝顔の一|鉢《はち》を備えない裏長屋には夫婦げんかの回数が多かったであろうと思われる。これが日本人である。風雅の道はいかなる積極的活動的なる日本にも存在すべきものなのである。
風雅は自我を去ることによって得らるる心の自由であり、万象の正しい認識であるということから、和歌で理想とした典雅幽玄、俳諧の魂とされたさびしおりというものがおのずから生まれて来るのである。幽玄でなく[#「なく」に傍点]、さびしおりのない[#「ない」に傍点]ということは、露骨であり我慢であり、認識不足であり、従って浅薄であり粗雑であるということである。芭蕉のいわゆる寂《さ》びとは寂《さ》びしいことでなく仏教の寂滅でもない。しおりとは悲しいことや弱々しいことでは決してない。物の哀れというのも安直な感傷や宋襄《そうじょう》の仁《じん》を意味するものでは決してない。これらはそういう自我の主観的な感情の動きをさすのではなくて、事物の表面の外殻《がいかく》を破ったその奥底に存在する真の本体を正しく認める時に当然認めらるべき物の本情の相貌《そうぼう》をさしていうのである。これを認めるにはとらわれぬ心が必要である。たとえば仏教思想の表面的な姿にのみとらわれた凡庸の歌人は、花の散るのを見ては常套的《じょうとうてき》の無常を感じて平凡なる歌を詠《よ》んだに過ぎないであろうが、それは決してさびしおりではない。芭蕉のさびしおりは、もっと深いところに進入しているのである。たとえば、黙々相対して花を守る老翁の「心の色」にさびを感じ、秋風にからびた十団子《とおだんご》の「心の姿」にしおりを感じたのは畢竟《ひっきょう》曇らぬ自分自身の目で凡人以上の深さに観照を進めた結果おのずから感得したものである。このほかには言い現わす方法のない、ただ発句によってのみ現わしうるものをそのままに発句にしたのである。
寂びしおりを理想とするということは、おそらく芭蕉以前かなり遠い過去にさかのぼることができるであろうということは、連歌に関する心敬《しんぎょう》の言葉からも判読される。「余情」や「面影」を尊び「いわぬところに心をかけ」、「ひえさびたる趣」を愛したのであるが、それらの古人の理想を十二分に実現した最初の人が芭蕉であったのである。
さび、しおり、おもかげ、余情等種々な符号で現わされたものはすべて対象の表層における識閾《しきいき》よりも以下に潜在する真実の相貌《そうぼう》であって、しかも、それは散文的な言葉では言い現わすことができなくてほんとうの純粋の意味での詩によってのみ現わされうるものである。饒舌《じょうぜつ》よりはむしろ沈黙によって現わされうるものを十七字の幻術によってきわめていきいきと表現しようというのが俳諧の使命である。ホーマーやダンテの多弁では到底描くことのできない真実を、つば元まできり込んで、西瓜《すいか》を切るごとく、大木を倒すごとき意気込みをもって摘出し描写するのである。
この幻術の秘訣《ひけつ》はどこにあるかと言えば、それは象徴の暗示によって読者の連想の活動を刺激するという修辞学的の方法によるほかはない。この方法が西欧で自覚的にもっぱら行なわれこれが本来の詩というものの本質であるとして高調されるに至ったのは比較的新しいことであり、そういう思想の余波として仏国などで俳諧が研究され模倣されるようになったようである。しかしこの方法の極度に発達したものがすでに芭蕉晩年の俳諧において見いださるるのである。
暗示の力は文句の長さに反比例する。俳句の詩形の短いのは当然のことである。
仏人メートル氏が俳句について述べていた中に「俳諧は読者を共同作者とする」という意味の言葉があったと思う。実際読者の中に句の提供する暗示に反応し共鳴すべきものがなかったら、俳句というものは成立しない。俳句の全然わからなかったらしいチャンバーレン氏の言ったように、それはただ油絵か何かの画題のようなものに過ぎなくなり、芭蕉の有名な句でも「枯れ枝にからすのいる秋景」になってしまうであろう。この、画題と俳句との相違はどこから生まれるかというと、それは対象の象徴的心像の選択と、その排列と、句をはたらかせる言葉のさばきとであり、なかんずく重要なのは「てにをは」の使用である。それよりも大切なのは十七字の定型的詩形から来る音数律的な律動感である。
短い詩ほど詩形の規約の厳重さを要求する。そうでなければ、詩だか画題だか格言だかわからなくなる。のみな
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