_なる想像を許さるれば、古《いにしえ》の連歌俳諧に遊んだ人々には、誹諧の声だけは聞こえていてもその正体はつかめなかった。さればこそ誹諧は栗《くり》の本《もと》を迷い出て談林の林をさまよい帰するところを知らなかった。芭蕉も貞徳《ていとく》の涎《よだれ》をなむるにあきたらず一度はこの林に分け入ってこのなぞの正体を捜して歩いた。そうして枯れ枝から古池へと自然のふところに物の本情をもとめた結果、不易なる真の本体は潜在的なるものであってこれを表現すべき唯一のものは流行する象徴による暗示の芸術であるということを悟ったかのように見える。かくして得られた人間世界の本体はあわれであると同時に滑稽であった。この哀れとおかしみとはもはや物象に対する自我の主観の感情ではなくて、認識された物の本情の風姿であり容貌《ようぼう》である。換言すれば事物に投射された潜在的国民思想の影像である。思うにかのチェホフやチャプリンの泣き笑いといえどもこの点ではおそらく同様であろう。このようにして和歌の優美幽玄も誹諧《はいかい》の滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》も一つの真実の中に合流してそこに始めて誹諧の真義が明らかにされたのではないかと思われる。
 芭蕉がいかにしてここに到着したか。もちろん天稟《てんぴん》の素質もあったに相違ないが、また一方数奇の体験による試練の効によることは疑いもない事である。殿上に桐火桶《きりびおけ》を撫《ぶ》し簾《すだれ》を隔てて世俗に対したのでは俳人芭蕉は大成されなかったに相違ない。連歌と俳諧の分水嶺《ぶんすいれい》に立った宗祇《そうぎ》がまた行脚《あんぎゃ》の人であったことも意味の深い事実である。芭蕉の行脚の掟《おきて》はそっくりそのままに人生行路の掟である。僧|心敬《しんぎょう》が「ただ数奇と道心と閑人との三のみ大切の好士なるべくや」と言ったというが、芭蕉の数奇をきわめた体験と誠をせめる忠実な求道心と物にすがらずして取り入れる余裕ある自由の心とはまさしくこの三つのものを具備した点で心敬の理想を如実に実現したものである。世情を究め物情に徹せずしていたずらに十七字をもてあそんでも芭蕉の域に達するのは困難であろう。発句はどうにかできても連句は到底できないであろう。
 芭蕉が「誹諧は万葉の心なり」と言ったという、真偽は別として、偽らざる心の誠という点でも、また数奇の体験から自然に生まれた詩であるという点でもまさにそのとおりである。しかしたしか太田水穂《おおたみずほ》氏も言われたように、万葉時代には物と我れとが分化し対立していなかった。この分化が起こった後に来る必然の結果は、他人の目で物を見る常套主義《じょうとうしゅぎ》の弊風である。その一つの現象としては古典の玩弄《がんろう》、言語の遊戯がある。芭蕉はもう一ぺん万葉の心に帰って赤裸で自然に対面し、恋をしかけた。そうして、自然と抱合し自然に没入した後に、再び自然を離れて静観し認識するだけの心の自由をもっていた。
 芭蕉去って後の俳諧は狭隘《きょうあい》な個性の反撥力《はんぱつりょく》によって四散した。洒落風《しゃれふう》[#「洒落風」は底本では「酒落風」]浮世風などというのさえできた。天明|蕪村《ぶそん》の時代に一度は燃え上がった余燼《よじん》も到底|元禄《げんろく》の光炎に比すべくはなかった。芭蕉の完璧《かんぺき》の半面だけが光ってすぐ消えた。天保より明治子規に至るいわゆる月並み宗匠流の俳諧は最も低級なる川柳よりもさらに常套的《じょうとうてき》であり無風雅であり不真実であり、俳諧の生命とする潜在的なるにおいや響きは影を消した。最も顕在的に卑近なモラールやなぞなぞだけになってしまった。これを打破するには明治の子規一門の写生主義による自然への復帰が必要であった。客将漱石は西洋文学と漢詩の素養に立脚して新しきレトリックの天地を俳句に求めんとした。子規は手段に熱中していまだ目的に達しないうちに早世した。そうして手段としての写生の強調がそのままに目的であるごとく思われて、だれも芭蕉の根本義を研究することすらしなかった。ひとり漱石は蕪村の草径を通って晩年に近づくに従って芭蕉の大道に入った。その修善寺《しゅぜんじ》における数吟のごときは芭蕉の不易の精神に現代の流行の姿を盛ったものと思われる。 
 現時の俳壇については多くを知らないのであるが、ともかくも滔々《とうとう》として天下をおぼらすジャーナリズムの波間に遊泳することなしにはいわゆる俳壇は成立し難いように見える。一派の将は同時に一つの雑誌の経営者でなければならない。風雅の誠をせめる閑日月に乏しいのは誠にやむを得ない次第である。既得の領土に安住を求むるか、センセーションを求めて奇を弄《ろう》するかに迷わざるを得ないのである。
 一方では俳諧を無用の閑文字と考
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