が決して偶然でないことは次の所説から理解されようかと思う。
 ジュール・ロマンという人が、フランス人の作ったいわゆるハイカイを批評した言葉の中におおよそ次のような意味の苦言がある。「俳句の価値はすべての固定形の詩の場合と同様に詩形の固定していること、形式を規定する制約の厳重なことに存している。かつて仏国にソンネット詩形を取り入れたとき、多少この詩形の規則をはずれたようなものを作ったものもあって、いかもの扱いにされたことであったが、それでもその規則はずれの自由さはほんのわずかの程度のものであった。しかるにフランスのハイカイはなるほど三つの詩句でできているというだけは日本のに習っているが、一句の長さにはなんの制限もないし、三句の終わりの語呂《ごろ》の関係にも頓着《とんちゃく》しない。それでは言わば多少気のきいたノート・ド・カルネー(手帳の覚え書き)ぐらいにはなるかもしれないが、しかし日本俳句の力強さも、振動性も拡張性もない」というのである。外国人の所説としてはおもしろいと思われる。
 実際短い詩に定型がなかったら「手帳の覚え書き」との区別はつきにくい。しかし「古池に蛙《かわず》が飛び込んで水音がした」がなぜ散文で、「古池や蛙飛び込む水の音」がなぜ詩であるか。それは無定形と定形との相違である。しからば前者の五、九、七、を一つの異なる定型としてはなぜいけないか。この疑問に答えるには日本における五七調の成立と、その必然性とを考えなければならない。
 どうして日本に五、七あるいは七、五の律動が普遍化したかということはむつかしい問題である。今のところ明白な説明はできそうもない。私見によるとおそらくこれは四拍子の音楽的拍節に語句を配しつつ語句と語句との間に適当な休止を塩梅《あんばい》する際に自然にできあがった口調から発生したものではないかと想像されるのであるが、これについては別の機会に詳説することとして、ここではともかくそうしてできた五七また七五調が古来の日本語に何かしら特に適応するような楽律的性質を内蔵しているということをたとえ演繹《えんえき》することは困難でも、眼前の事実から帰納することができればそれで少なくもこの場限りの目的には充分であろうと思われる。
 古事記などの古い部分に現われたいろいろの歌ではまだ七五の形は決定していないで、いろいろの字数の句が錯雑している。そうしてその錯雑した中に七五あるいは五七の胚芽《はいが》のようなものが至るところに散点していることが認められる。それがいつとはなしに自然淘汰《しぜんとうた》のふるいにでもかけられたかのようにいろいろな異分子が取り除かれて五と七という字数の交互的連続に移って行っている。こういう現象は決して権勢の力や金銭の力で招致することのできないものであって、やはり進化論的の意味での自然淘汰、適者生存の理によるものであろうと思われる。この七五、また五七は単に和歌の形式の骨格となったのみならずいろいろな歌謡俗曲にまで浸潤して行ってありとあらゆる日本の詩の領分を征服し、そうしてすべての他の可能なるものを駆逐し、排除してしまっている。これは一つの大きな「事実」である。そうだとすれば、これだけの強勢な伝播《でんぱ》と感染の能力を享有する七五の定数にはやはりそうなるだけの内在的理由があると考えるよりほかに道はないであろうと思われる。
 要するに七五の定数律は人のこしらえたものではなくて、ひとりで生まれひとりで生長して来たものである。それで今にわかに人為的にこれを破壊し棄却しようとしてもそう急速には意のままにならないであろうと考えられる。これは理屈ではなくて事実なのである。
 次には俳句が七五七でなくて五七五であるのはどういうわけかという疑問が起こる。和歌の上の句と同型だからというのも一つの説明にはなるが、それとは独立にも五七五のほうが短詩の形式としてすぐれていると思われる理由もなくはない。初五が短いためにそのあとでちょっとした休止の気味があって内省と玩味《がんみ》の余裕を与え、次に来るものへの予想を発酵させるだけの猶予《ゆうよ》を可能にする。中七は初五で提出された問題の発展であり解答であるので長さを要求する。最後の五は結尾であって、しかもそのあとに企韻の暗示を与え、またもう一ぺん初五をふり返ってもう一ぺん詠《よ》み直すという心持ちを誘致するためには、短いほうが有効であるかと思われる。これはあるいは多少|牽強付会《けんきょうふかい》の説と見られるかもしれないがしかしとにかく一応こういう説も立て得られるということは事実であろうと思われる。
 次に「切れ字」というものの意義についてはすでに他の場所で解説したことがあるからここには略するが、これも要するに決して偶然なものでもなく、人工的のものでもなくきわめて自然で必要な短詩の制約の一つとして見るべきものである。
 以上私は俳句の形式の必然性についてかなりくどくどしく述べて来たようであるが、そうしたわけは私の考えでは俳句の精神といったようなものは俳句のこの形式を離れては存立し難いものと考えるからである。その精神とはどんなものか、それについては章を改めて述べてみたいと思う。

     二 俳句の精神とその修得の反応

 この講座の編集者から私は「俳句の精神」という課題を授けられた。この精神とは何を意味するか私にはよくわからない。たぶん「わび」とか「さびしおり」とか「風流」とかいうことの解説を要求されていることかとも思われた。しかし、そういう題目については従来多くの先輩の各方面からの所論や説述があり、私自身にもすでにいろいろな場所で繰り返して私見を述べて来たことであるから、今さらにまた同じことを繰り返したくないような気がする。それでここではむしろ少しちがった角度からこの問題を考えてみたいと思う。
 前に述べたように俳句というものの成立の基礎条件になるものが日本人固有の自然観の特異性であるとすると、俳句の精神というのも畢竟《ひっきょう》はこの特異な自然観の詩的表現以外の何物でもあり得ないかと思われて来る。
 日本人の自然観は同時にまた日本人の人世観であるということもすでに述べたとおりである。「春雨」「秋風」は日本人には直ちにまた人生の一断面であって、それはまた一方で不易であると同時に、また一方では流行の諸相でもある。「実」であると同時に「虚」である。「春雨や蜂《はち》の巣つとう屋ねの漏り」を例にとってみよう。これは表面上は純粋な客観的事象の記述に過ぎない。しかし少なくも俳句を解する日本人にとっては、この句は非常に肉感的である。われわれの心の皮膚はかなり鋭い冷湿の触感を感じ、われわれの心の鼻はかびや煤《すす》の臭気にむせる。そのような官能の刺激を通じて、われわれ祖先以来のあらゆるわびしくさびしい生活の民族的記憶がよびさまされて来る。同時にまた一般的な「春雨」のどこかはなやかに明るくまたなまめかしい雰囲気《ふんいき》と対照されてこの雨漏りのわびしさがいっそう強調される。一方ではまたこの「蜂《はち》の巣」の雨にぬれそぼちた姿がはっきりした注意の焦点をなして全句の感じを強調している。この句を詠《よ》んだ芭蕉は人間であると同時に、またこの蜂の巣の主の蜂でもあったのである。
 このように自然と人間との交渉を通じて自然を自己の内部に投射し、また自己を自然の表面に映写して、そうしてさらにちがった一段高い自己の目でその関係を静観するのである。
 こういうことができるというのが日本人なのである。
 こういうふうな立場から見れば「花鳥諷詠《かちょうふうえい》」とか「実相観入」とか「写生」とか「真実」とかいうようないろいろなモットーも皆一つのことのいろいろな面を言い現わす言葉のように思われて来るのである。
 短歌もやはり日本人の短詩である以上その中には俳句におけるごとき自然と人間の有機的結合から生じた象徴的な諷詠の要素を多分に含んだものもはなはだ多いのであるが、しかし俳句と比較すると、和歌のほうにはどうしても象徴的であるよりもより多く直接法な主観的情緒の表現が鮮明に濃厚に露出しているものが多いことは否定し難い事実である。そうした短歌の中の主観の主はすなわち作者自身であって、作者はその作の中にその全人格を没入した観があるのが普通である。しかし俳句が短歌とちがうと思われる点は、上にも述べたように花鳥風月と合体した作者自身をもう一段高い地位に立った第二の自分が客観し認識しているようなところがある。「山路来て何やらゆかしすみれ草」でも、すみれと人とが互いにゆかしがっているのを傍《かたわら》からもう一人の自分が静かにながめているような趣が自分には感ぜられる。
 短歌と俳句との精神というかあるいは態度というか、とにかくその内容に対する作者自己の関係の両者における相違をしいて求めてみると、その相違が主として上記の点に係わっているように思われる。このような差別の起こった一つの原因は、俳句の詩形が極度に短くなったために、もし直接な主観を盛ろうとすると、そのために象徴的な景物の入れ場がなくなってしまうので、そのほうを割愛して象徴的なものに席を譲るようになり、従って作者の人間は象徴の中に押し込まれ自然と有機的に結合した姿で表現されるよりほかにしかたがなくなる。その結果として諷詠者《ふうえいしゃ》としての作者は、むしろ読者と同水準に立って、その象徴の中に含まれた作者自身を高所からながめるような形になる。
 この事と連関してちょっとおもしろい話がある。私の知っているある歌人の話ではその知人の歌人中で自殺した人の数がかなり大きな百分率を示している。俳人のほうを聞いてみると自殺者はきわめてまれだという。もちろんこれは僅少《きんしょう》な材料についての統計であるから、一般に適用される事かどうかはわからないが、上述のごとき和歌と俳句との自己に対する関係の相違を考え合わしてみるとおもしろい事実であろうかと思われる。いかなる悲痛な境遇でもそれを客観した瞬間にはもはや自分の悲しみではない。
 歌人と俳人とではあるいは先天的に体質、従ってそれによって支配される精神的素質がちがっているのではないかという想像さえ起こし得られる。近ごろ流行の言葉を使えば、体内各種のホルモンの分泌のバランスいかんが俳人と歌人とを決定するのではないかという気もする。これはしかるべき生理学者の研究題目になりうるのではないかと思われる。
 それはいずれにしても、上述のごとき俳句における作者の自己の特殊な立場は必然の結果として俳句に内省的自己批評的あるいは哲学的なにおいを付加する。「風流」といい「さび」というのも畢竟《ひっきょう》は自己を反省し批評することによってのみ獲得し得られる「心の自由」があって、はじめて達し得られる境地であろうと思われる。
 風流とかさびとかいう言葉が通例消極的な遁世的《とんせいてき》な意味にのみ解釈され、使用されて来た。これには歴史的にそうなるべき理由があった。すなわち仏教伝来以後今日まで日本国民の間に浸潤した無常観が自然の勢いで俳句の中にも浸透したからである。しかし自分の見るところでは、これは偶然のことであって決して俳句の精神と本質的に連関しているものとは思われない。仏教的な無常観から解放された現代人にとっては、積極的な「風流」、能動的な「さび」はいくらでも可能であると思われる。日常劇務に忙殺される社会人が、週末の休暇にすべてを忘却して高山に登る心の自由は風流である。営利に急なる財界の闘士が、早朝忘我の一時間を菊の手入れに費やすは一種の「さび」でないとは言われない。日常生活の拘束からわれわれの心を自由の境地に解放して、その間にともすれば望ましき内省の余裕を享楽するのが風流であり、飽くところを知らぬ欲望を節制して足るを知り分に安んずることを教える自己批判がさびの真髄ではあるまいか。
 俳句を修業するということは、以上の見地から考えると、退嬰的《たいえいてき》な無常観への逃避でもなければ、消極的なあきらめの哲学の演習でもな
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