自然観の詩的表現以外の何物でもあり得ないかと思われて来る。
日本人の自然観は同時にまた日本人の人世観であるということもすでに述べたとおりである。「春雨」「秋風」は日本人には直ちにまた人生の一断面であって、それはまた一方で不易であると同時に、また一方では流行の諸相でもある。「実」であると同時に「虚」である。「春雨や蜂《はち》の巣つとう屋ねの漏り」を例にとってみよう。これは表面上は純粋な客観的事象の記述に過ぎない。しかし少なくも俳句を解する日本人にとっては、この句は非常に肉感的である。われわれの心の皮膚はかなり鋭い冷湿の触感を感じ、われわれの心の鼻はかびや煤《すす》の臭気にむせる。そのような官能の刺激を通じて、われわれ祖先以来のあらゆるわびしくさびしい生活の民族的記憶がよびさまされて来る。同時にまた一般的な「春雨」のどこかはなやかに明るくまたなまめかしい雰囲気《ふんいき》と対照されてこの雨漏りのわびしさがいっそう強調される。一方ではまたこの「蜂《はち》の巣」の雨にぬれそぼちた姿がはっきりした注意の焦点をなして全句の感じを強調している。この句を詠《よ》んだ芭蕉は人間であると同時に、またこの
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