く、またひとりよがりの自慰的お座敷芸でもない。それどころか、ややもすればわれわれの中のさもしい小我のために失われんとする心の自由を見失わないように監視を怠らないわれわれの心の目の鋭さを訓練するという効果をもつことも不可能ではない。
俳句の修業はその過程としてまず自然に対する観察力の練磨《れんま》を要求する。俳句をはじめるまではさっぱり気づかずにいた自然界の美しさがいったん俳句に入門するとまるで暗やみから一度に飛び出してでも来たかのように眼前に展開される。今までどうしてこれに気がつかなかったか不思議に思われるのである。これが修業の第一課である。しかし自然の美しさを観察し自覚しただけでは句はできない。次にはその眼前の景物の中からその焦点となり象徴となるべきものを選択し抽出することが必要である。これはもはや外側に向けた目だけではできない仕事である。自己と外界との有機的関係を内省することによって始めて可能になる。
句の表現法は、言葉やてにはの問題ばかりでなくてやはり自然対自己の関係のいかなる面を抽出するかという選択法に係わるものである。
このような選択過程はもちろん作者が必ずしも意識して遂行するわけではないが、しかしそういう選択の能力は俳句の修業によって次第に熟達することのできる一種不思議な批判と認識の能力である。こういう能力の獲得が一人の人間の精神的所得として、そう安直な無価値なものであろうとは思われないのである。
一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これは普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性によるものと解釈されるようであるが、しかしそれよりも根本的なことは、書く事の内容の取捨選択について積まれた修業の効果によるのではないかと思われる。俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。
こういうふうに考えて来ると、俳句というものの修業が、決して花がるたやマージャンのごとき遊戯ではなくてより重大な精神的意義をもつものであるということがおぼろげながらもわかって来る。それと同時に作句ということが決してそう生やさしい仕事ではないことが想像されるであろうと思われる。
俳句の修業はまた一面においては日本人固有の民族的精神の習得である。本編の初めに述べたように俳句という特異な詩形の内容と形式の中に日本民族の過去の精神生活のほとんど全部がコンデンスされエキストラクトされている。これが外国人に俳句のわからない理由であると同時に日本だけに俳句が存在しまた存在しなければならなかった理由である。同じ理由から俳句を研究することは日本人を研究することであり、俳句を修業することは日本人らしい日本人になるために、必要でないまでも最も有効な教程であり方法である。これは一見誇大な言明のようであるが実は必ずしも過言でないことはこの言葉の意味を深く玩味《がんみ》される読者にはおのずから明らかであろうと思われる。
こういう意味で自分は、俳句のほろびない限り日本はほろびないと思うものである。
付言
以上は自分の自己流の俳句観である。現代俳壇の乱闘場裏に馳駆《ちく》していられるように見える闘士のかたがたが俳句の精神をいかなるものと考えていられるかは自分の知らんと欲していまだよく知りつくすことのできないところである。従って上記のごときは俳壇の諸家の一粲《いっさん》を博するにも足りないものであろうが、しかし全然畑違いのディレッタントの放言も時に何かの参考になることもあろうかと思って、ただ心のおもむくままをしるしてみた次第である。多忙と微恙《びよう》に煩わされてはなはだまとまりの悪い随筆になってしまったのは遺憾である。
[#地から3字上げ](昭和十年十月、俳句作法講座)
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第65刷発行
※校正には、2001(平成13)年7月5日67版を使用しました。
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年9月5日作成
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