の包容性を失わないのである。
 こう考えて来ると、和歌と俳句は純粋な短詩の精神を徹底的に突きつめたものであり、またその点で和歌よりも俳句のほうがいっそう極度まで突きつめたものだということになるのである。
 俳句における季題の重要性ということも同じ立場からおのずから明白であろう。限定され、そのために強度を高められた電気火花のごとき効果をもって連想の燃料に点火する役目をつとめるのがこれらの季題と称する若干の語彙《ごい》である。
 有限な語彙の限定は形式の限定と同様往々俳句というものの活動の天地を限定するかのような錯覚を起こさせる。近ごろいろいろの無定形無季題短詩の試みがあるのは多くはこの錯覚によるのではないかと想像される。しかし人間と化合した有機的の「春雨」「秋風」はその言葉の外形は不変であっても、その内容は人間社会とともに進化の歩みを止めることはない。人間とその社会が新しくなれば、いっしょに新しくなって行くものである。詩形についても同様の事が言われる。人体の解剖学的構造は二千年前の先祖とほとんど同じでも人間の思想は決して同じところにとどまっていないのである。それと同じように、詩形は固定していてもそれに盛らるる精神的内容はいくらでも進化しうるのである。
 十七字のパーミュテーション、コンビネーションが有限であるから俳句の数に限りがあるというようなことを言う人もあるが、それはたぶん数学というものを習いそこねたかと思われるような人たちの唱える俗説である。少なくも人間の思想が進化し新しい観念や概念が絶えず導入され、また人間の知恵が進歩して新しい事物が絶えず供給されている間は新しい俳句の種の尽きる心配は決してないであろう。
 話が少し横道にそれてしまったが、ここで言わんとしたことは、俳句が最短の詩形であるがために、その語彙《ごい》の中に連想と暗示の極度な圧縮が必要であるということ、それからまたそういう圧縮が可能となるための基礎条件として日本人のような特異な自然観が必要であること、なおその上に環境条件として古来の短詩形の伝習によって圧縮が完成され、そうしてできあがった語彙の象徴的効力がそれぞれに分化限定されたこと、それらの条件が具備して、そこではじめて俳句という世界に類のない詩が成立したということである。
 以上は俳句の内容に関することであったがその五七五の定型についてもその成立
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