蜂の巣の主の蜂でもあったのである。
 このように自然と人間との交渉を通じて自然を自己の内部に投射し、また自己を自然の表面に映写して、そうしてさらにちがった一段高い自己の目でその関係を静観するのである。
 こういうことができるというのが日本人なのである。
 こういうふうな立場から見れば「花鳥諷詠《かちょうふうえい》」とか「実相観入」とか「写生」とか「真実」とかいうようないろいろなモットーも皆一つのことのいろいろな面を言い現わす言葉のように思われて来るのである。
 短歌もやはり日本人の短詩である以上その中には俳句におけるごとき自然と人間の有機的結合から生じた象徴的な諷詠の要素を多分に含んだものもはなはだ多いのであるが、しかし俳句と比較すると、和歌のほうにはどうしても象徴的であるよりもより多く直接法な主観的情緒の表現が鮮明に濃厚に露出しているものが多いことは否定し難い事実である。そうした短歌の中の主観の主はすなわち作者自身であって、作者はその作の中にその全人格を没入した観があるのが普通である。しかし俳句が短歌とちがうと思われる点は、上にも述べたように花鳥風月と合体した作者自身をもう一段高い地位に立った第二の自分が客観し認識しているようなところがある。「山路来て何やらゆかしすみれ草」でも、すみれと人とが互いにゆかしがっているのを傍《かたわら》からもう一人の自分が静かにながめているような趣が自分には感ぜられる。
 短歌と俳句との精神というかあるいは態度というか、とにかくその内容に対する作者自己の関係の両者における相違をしいて求めてみると、その相違が主として上記の点に係わっているように思われる。このような差別の起こった一つの原因は、俳句の詩形が極度に短くなったために、もし直接な主観を盛ろうとすると、そのために象徴的な景物の入れ場がなくなってしまうので、そのほうを割愛して象徴的なものに席を譲るようになり、従って作者の人間は象徴の中に押し込まれ自然と有機的に結合した姿で表現されるよりほかにしかたがなくなる。その結果として諷詠者《ふうえいしゃ》としての作者は、むしろ読者と同水準に立って、その象徴の中に含まれた作者自身を高所からながめるような形になる。
 この事と連関してちょっとおもしろい話がある。私の知っているある歌人の話ではその知人の歌人中で自殺した人の数がかなり大きな百分率を示し
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